素をもって絢(あや)をなす
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グラフィックデザインというものを生業にしていると、
やたらと“見た目のこと”を気にしてしまうものです。
格好良いことが善。
美しいことがすべて…。

そうしていると、今度は何が格好よくて、
何が美しいのかと考え始める始末です。

そういうことを考え始めると、いつも思い出すのが論語のこんな一説です。



ある日弟子の一人が孔子に訊ねます。
「古い詩の中の言葉で、美しい女性をして、
『巧笑倩たり(笑顔のえくぼが愛らしく)
 美目盻たり(目元がはっきりしている)
 素を以て絢を為す』
とありますが、素を以て絢(あや)を為すとはどういう意味でしょうか?」


孔子は答えます。
「絵の事は素より後る。
(絵を描くときは真っ白の上に描いていくものだよ。
紙が汚れていては絵にならないからね)」


その言葉を聞いた弟子は彼なりに解釈してこんな風に答えました。
「美しさの所以は素地となっている元々のものの中にこそある…。
形は後からついてくるということですか?」


弟子のその言葉を聞いて孔子はとても喜んだそうです。
「古の詩のことも君となら話すことができるね」と。



論語のこの話には、上のような解釈の他にも、
孔子の発言を「絵の事は素(白色)を後にする」と読んで、
絵画におけるハイライトの白色を礼学に見立てて、
「形は後からつけるものだ」とする解釈もあるそうですが、
それだと前の句との意味がイマイチ通じませんし、
僕は上の解釈の方が好きです。


学生の頃、デッサンでも、グラフィックの作品でも、
真っ白い紙の上に最初の一本の線をひくことが僕はとても怖かった。

最終形のイメージはその一本の線をひく前から頭の中に鮮やかに在るのです。
でもそれを再現していく作業の、最初の第一歩が本当に怖かった。
素のものを生かすのか、損なうのか、全てはその一瞬にかかっていました。

その一本さえ引いてしまえば、あとは無心で描ききるだけ。
うまくいくこともあれば、いかないことも…。
でもその結果の如何は、いつだってその最初の一本を引いたときに、
もうすでに決まっていたことなのです。


『素をもって絢をなす』

格好よいとは? 美しいとは?
デザインのコツというのも、その言葉の中にあるように思えてなりません。

「味の素」の話ではありません。「デザインの素」の話です。
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by chii-take | 2007-09-05 20:30 | Comments(8)
Commented by 真青 at 2007-09-06 12:07 x
落胆させて、もうしわけない
きょうもまた、みにきてくだされ。
Commented by ちいたけ at 2007-09-06 15:15 x
>真青さん。
>きょうもまた…

ってあなたそのページの前の更新3月やん!!。
いつ更新されんの?

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Commented by やすじじ at 2007-09-06 23:56 x
>頭の中に鮮やかに在るイメージをを再現していく作業

ああ、この言葉にやきもきせずにはいられません。
頭の中のイメージはいつだってこんなに素敵なものなのに
引く線はいつだってそれには叶わなく頼りない。
私が未熟だからかもしれないけど…。

もっとちゃんと汚れのない白い紙を見つめて
そこに残像のように写ったイメージを
なぞるだけでいいのに

いつだって流行や周りの声に動かされて筆がすべる。

ああ、やきもきする。

あたまの中のイメージの事も
「素」とは呼べない??
Commented by ちいたけ at 2007-09-07 01:56 x
>やすじじさん
論語のこのくだりには、古い時代から様々な解釈が存在します。
本当のところのことはもう誰にもわかりません。

魏の時代、宋の時代、日本では江戸時代の頃から、様々な学者がこの言葉の意味を推察してきました。
中国では「素」という語に「白」という意味があるので、概ね白にちなんだ解釈が支持されていたようです。
ただし気をつけなければいけないことは、それらの時代には、もうすでに、白川先生が研究されていたような古代文字の知識は失われていたということです。
甲骨文字に刻まれた文字の最初の意味にまで遡れば、また違った解釈も見えてきます。

白川先生によれば
【素】は染汁の入った鍋に糸束を漬けようとしているところを象った文字で、まだその糸束の結び目のところが染められていなくて白い状態で残っている所を指しているのだといいます。
だから【素】という文字に白という意味が含まれるのだといいます。
Commented by ちいたけ at 2007-09-07 01:57 x
>やすじじさん(続きです)
つまり僕が思うに、まだ色がついていない状態、まだ形になっていない状態のもの。あるいはもっと踏み込んだら、形にはならないものを指しているのかもしれません。

孔子が真っ白の状態を指して美しいと言ったのは、物事が形になっていく段階でどうしてもとらわれてしまう邪念、カッコよく見せようとか、これで一儲けしようとか、みんなにスゴイと言ってもらいたいとか、そういったものに影響を受ける前の純粋な衝動を比喩表現として真っ白な紙に例えたんだと思います。

だから、だからです。
あなたがずっと抱き続けているその描きたいと思う衝動こそ、
頭の中のイメージを形にしたいと思うその衝動をこそ、
孔子は最も美しいと言ったんだと思います。
いや、それが「絢をなす術なんだ」と言ったんだと思います。


このことを考えるとき、僕は『星の王子様』のこの一節、
「たいせつなことはね、目には見えないんだよ...」
これを思い出します。

あ、そうそう。
もしもあなたが未熟なんだとすればね、
世の中の絵描きの大半は筆を折るべきです。
とくに僕なんかね(笑)…。
Commented by souu at 2007-09-07 08:54 x
奥が深いですね。
グラフィックデザイナーも絵描きさんも書家も 真っ白い紙に作り出すのは同じです。でも、ここまで考えて行動している人は少ないでしょうね。
素晴らしいと思いますが 
》素地となっている元々のもの・・・
これを作る為に長年磨くのでしょうね。そして それを「無」になって自然体で 作品に誕生させるのかな?
Commented by ちいたけ at 2007-09-07 15:07 x
>souu様
確かに僕の考え過ぎはもう病気の領域に達していますね(笑)。
よく言われます。

昔も今もそうですが、
何でも事の始めの成長度合いというのはスゴいもので、絵を習いはじめたときも、描けば描くほどうまくなったものです。
(反対にサボればサボるほどヘタクソに戻っていくんですが…)
それがある段階を過ぎるとその成長曲線は急激に緩やかになります。

ムキになって練習するんですが、なかなか成長が感じられなくなります。
そうなってくると、“描きたい”からやってるのか、
“うまく描く”ためにやってるのか分からなくなります。
“うまく描けない”と、それくらいのことで、“描きたくなくなる”程度のものだったのかと…。
一度そういう疑問を抱いてしまうと、白い紙の前に立つことも、だんだん虚しくなってきます。
そうなったら僕は一度描くことを止めてしまうんです。
Commented by ちいたけ at 2007-09-07 15:07 x
>souu様(続きです)
これは経験則で知ってることなんですが、
しばらくするとまた描きたくなるんですよね。
そのときの気持ちというのは、うまく描くことも、
格好良く描くことも、本当に何にも無いんですね。
もうそんなことどうでもよくなるんです。ただ描きたいだけ。
今まで培った手法も、やり方も全部捨て去って、まっさらになって描いていく。そのとき改めて描く喜びを感じていたものです。

白川先生の記述で、
【無】は神降ろしの儀式で両手を広げて踊っている人の姿で、
自分を「ない」ものにして神さまと一体になる姿を象った文字であると知ったとき、
僕は、なんというか、嬉しかったんです。
それだ、目指しているものはそれなんだと、思ったものです。
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