俺の友達にさ…
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生来人付き合いの下手な人間なので、あまり大勢いる方ではないのですが、
今日は友達について書こうと思います。

巷には知り合いの名刺を出し合って、その人物の大物っぷりで人脈の広さを競うような遊びがあるそうですが、そこまで下品なことではなくっても、
「俺の友達にさ、こんなスゴイやつがおんねん…」
という話は誰しもしてしまうものではないでしょうか?

ちょっと得意な気分になったり、でも、言ってしまったあとで、別に自分が大した人間というわけでもなかったことに気がついて、得意になった分だけ落ち込んだり…。

それでも止められないのが「俺の友達にさ…」な話だと思います。

あとで落ち込むかもしれないけど、やっぱりやってみようと思います。
やめられないことにはそれなりに理由があるからだと思うし、何より話したいという衝動をどうしても押さえることができないからです。


友達。


学校を出て、社会人になって、結婚でもしてしまえば、途端に会うことの少なくなってしまうのが友達という関係にある人々です。

実際友達とはあまり会っていません。
特別な用事があれば別ですが、暇だからという理由ではもう会えなくなってしまうのも、この歳になると友達に対して当たり前にそこにある現実です。

だから必然的に友達の近況というのはメールであったり電話であったり、どこか距離を感じる媒体を通して知ることになります。

極めつけが友達本人の意志に関係なく、他の媒体を通して漏れ聞こえてくる情報としての音沙汰。
これによって受ける刺激というのは他に例を見ないほどで、こちらの表情が当然相手に伝わらないものだから、思う存分自分の感傷に浸れるわけです。

この正月、テレビのコマーシャルは随分正月仕様の様相を呈していました。
どのメーカーも今こそ自社のアピールどきとばかりに、通常より多めのサイクルでコマーシャルを流すので、何度も何度も同じコマーシャルを目にすることになります。
繰り返し繰り返し挿入されるそんな大手メーカーのコマーシャルの中に、ある友人の仕事の一端が映し出されていました。

テレビ画面の中で“いい感じ”に演出されて登場する友の仕事。きっとその仕事だって日常の激務の中のほんの一端で、「華やか」なんて言ったら本人は「とんでもない」なんて言うんだろうけど、
片やこちらは風邪に取り憑かれて寝込み中のおっさん失業者です。落ち込めるだけ落ち込ましてもらいました。

しかもその仕事の一端は(もちろんデザイン系の仕事なんですが)、かつてまだとても近い距離にそいつが居た頃の彼の感性がそのまま投影されていたので、僕はなんだか懐かしくなるのと同時に、その当時の自分も頭の中に蘇ってくる感覚があって、そいつが今の自分を見ているようで、ちょっと辛かったりもしたんです。

嬉しいという感覚があるのかどうなのか?
ないとは言わないけれど、嬉しいとはちょっと違ったのです。
悔しいか?
それもまた違う。そんなに小さい人間でもないのです。


今日掲載した写真。
これは実は夏に撮っていた写真です。ちょうどこの日記に書いている出来事があった日の夜、僕はある友達に会っていました。そのときに撮ったものです。

作品を見てくれということで夜分に二人で行ったファミリーレストラン。
そこで見せられた作品がこの物体でした。
本人の希望もあってこのときは日記に書きませんでした。
なぜ書いてはいけないのか本人に問うと、その作品をある国際コンペティションに応募するからその結果が出るまでは不特定の人の目に触れさせるわけにはいかないと言うのです。

まあ、もっともな話だったので、僕はこの作品にとっても感銘を受けたのだけれども、そのことについては一切ブログ上でも触れず、写真もよく撮れていたけれどお蔵入りにしていました。

そして昨日、その友達から電話がかかってきて言うには、「入選した」とのことで、僕は早速このブログでの紹介を再度申し込みました。

くどいようではあったのですが、それも上に書いたような、やっぱり活躍する友のことは話がしたいからなのです。

もう結果が出たんだからいいようなものの、当人曰く主催側の許可もなく掲載してもいいものか不安ということなので、こんなボケボケ写真になってしまいました。

それでも話したいのです。もう、この気持ちは何なのか自分でもよくわかりません。

彼の言う主催側というのは、それはもう有名な団体なのです。
過去の受賞者の名前を見ると、葛西 薫だの、中島英樹だの、仲條正義だの、松本弦人だの、野田 凪だの、佐藤可士和だの、それはもう錚々たるメンバー。慎重になる彼の気持ちはわかります。

とりあえず入選ということなので、まだ何らかの選好が重ねられるのかどうなのか定かではありませんが、募集要項によると少なくともその団体の年鑑に掲載されることはもう間違いないようなのです。
いつの日か上に書いたような、この世界のスターの列に、彼の名前が並ぶのではないかと、それはもう僕は気もそぞろなわけです。

僕は別にそこに自分の名前を並べたいわけでも何でもないので、別に羨ましいとも何とも思わないのですが、彼の名前ならそこに並んでいたらやっぱりいいなと思うのです。

この気持ちは何なんだろうと考えます。

僕はやっぱりいくらか得意気にこの日記を書いています。
でもそれは自慢ではないのです。
だって自分のことではありませんからね。

自慢でないのに、この鼻高々な気持ちは何だ?

久しぶりに白川先生の本を開きました。

僕は一つの可能性を思ってひとつの字を調べました。
調べた字は「誇」です。
この字の原初の意味に、この気持ちの正体が隠れているのではないかと思ったのです。

意に反して「誇」という字にはいくらかネガティブな意味が宿っていました。
元の字は「夸」で表されており、これは「おごり」と訓される文字なのだそうです。

確かに孔子などは己の能力を誇ることを最も忌み嫌った人です。
漢字文化にそのような価値観があるのは周知のことでした。
いいえ、漢字文化圏のみならず、そういえばキリスト教の世界でも「pride=高慢」「jealousy=嫉妬」は七つの大罪の一つにも数えられていましたね。

でも僕は思うんです。英語で言うところのproud“誇りに思う”という気持ちは、それを他者に向ける限りは、なんら後ろめたいことではないんじゃないかと。

それは嫉妬でも高慢でもなく、僕はほんの少し「寂しく」「嬉しく」「切なく」「楽しく」なりながら、彼らを思うのです。ドキドキもすれば、ワクワクもしています。

自分のことのように思うのは間違いかもしれない。
でも、嬉しさも切なさも寂しさも、全部そこから来た気持ちなんです。
そんな行きどころのないような気持ちをちょっと脇へ置いておいてゆっくり自分の気持ちに整理をつけたとき、そこに見えてくる言葉はやっぱり「誇りに思う」という言葉でした。

友よ。やはり僕は君たちを誇りに思うのです。
たとえ君たちがどんなに謙遜しようとも、はたまた、どんなにその成果を笠に着て威張り散らそうとも、変わらず僕は誇りに思うと思う。
だから、どうか、また会える機会があるのなら、変わらない笑顔を見せて下さい。
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by chii-take | 2008-02-03 00:21
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