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そこにあるもの
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少し、お時間を下さい。
たぶんいつも以上に時間のかかることを書こうとしています。
でも損はさせません。いい話です。

いい話というのは僕がこれから書こうとしている話ではありませんよ。
僕がこれから紹介しようとしている「人」の話がいい話だからです。
損はさせません。
だから、今日はいつもより多い目に時間を下さい。


上原ひろみというジャズピアニストを勝手に宣伝します。
有名な人なので知っておられる方もあるかもしれないですね。
僕が今まで聴いた中で最も心動かされたピアニストです。
クラシックでもポップスでも、今までこんなに躍動感と煽情感のある鍵盤を聴いたことはありませんでした。

先日就職活動で面接に向うとき、不安で仕方なかった駅での待ち時間の間に、携帯プレーヤーでこの人の演奏を聴いていて、僕はどれだけ勇気づけられたか知りません。

面接が終わった後、厳しい現実を目の当たりにして、未来への不安に駆られながらトボトボと国道を歩いていた帰り道、歩きながらこの人の演奏を聴いていたら、今度は泣きそうになってしまいました。

無理矢理励ますようなエネルギーに満ちた演奏にではなくて、寄り添うような近さを感じて驚いたのです。
彼女の演奏を聴きながら、まるで反対に落ち込んでいる僕の話を聴いてもらっているような気分になったのです。
裸にされたような、素直にさせてもらったような…。
そんな思いでした。

いや、そんな僕のつたない紹介より、彼女自身の言葉や演奏を感じてもらう方がよさそうです。
それが本題でした。


まずはこちらをクリックして下さい。彼女の演奏が聴けます。
そしてそれをBGMにして、こちらの文章を読んでみて下さい。彼女の公式ホームページ上の日記風のテキストです。
世界を股にかけて演奏旅行をする彼女の日常が垣間みれる興味深いエピソードで溢れています。


天は二物を与えないとか言いますが嘘ですね。
彼女の文才には驚かされました。
僕は今では彼女の演奏のみならず、文章のファンにもなってしまったほどです。

「そこにピアノがあるから」

有名な登山家のセリフを捩った言葉ですね。


昔、学校からの帰り道に親友といろいろと話をしていて、当時まったく本を読まなかったそいつが、ある日珍しく本を読んだと言うから、どんな本を読んだんだい?と聴いたら、登山家の話であると言いました。
そして「そこに山があるから」と言ったある登山家の言葉を教えてくれました。

登山家はなぜ山に登るのか?
そこに山があるから。


僕はその話がおかしくてたまらなくて、そのとき爆笑してしまったのです。
何がおかしかったかというと、その言葉に真剣に心底感銘を受けていた親友のその真面目な様子がものすごくおかしかったのです。

僕はその当時から親友のファンでした。今でもそうです。
彼の作るものはいつでも純粋でした。
「だけど」とか「でも」とか「仕方なく」とか「あえて」とか、そういうあらゆる行動の“動機”に付随する“但し書き”のようなものがまったく存在しないのです。
悪く言えば融通が利かないと言うのですが、よく言えばそれだけ自分の直感やイズムに絶対の自信があったのですね。
僕はそんな彼の強固な信念にいつも嫉妬し、同時に尊敬していました。
いったいどんな思考回路を持ってすればこんな人間が出来上がるのか?

その答えが「そこに山があるから」だったような気がして、僕は呆気にとられて、同時にこれは適わないと思ったのでした。
笑わずにはいられませんでした。お手上げだったのです。
僕たちにとっての山とは何なのか?
僕にはそのときそれがよく判らなかったのです。

今はどうなのか?
わかったとは言いません。
でも僕はその言葉を聴いたときから、いつの時代もどのステージでも「そこに山があるから」という言葉を忘れたことはありませんでした。
簡単に言葉になるようなものではないのですが、なんとなくわかったような気がしていることがあって、それが上原ひろみのこのエピソードには表現されているような気がしたのです。

文章の後半、彼女の側に近寄って来た初老の男がこう話しかけます。

「君を見るのは3回目だ。君の事が大好きだ」
「一度目は、オルビェト、二度目は、ペルージャ、そして、 とうとう僕の街まで来てくれたね」


なんだか壮大な運命を感じる台詞ですよね。
彼女がプロになって初めてのステージに立ち会い、そしてファンになった男の住む街で5年後偶然開かれたコンサート。
そこでの出来事を彼女は「そこにピアノがあるから」という言葉で締めくくりました。

先日のこのブログのエントリーにいただいたコメントの中で、思いがけず「ファン」という言葉を見つけて、僕はそれからいろいろと考えていました。
ほとんど同時に彼女のこの話を思い出していたのです。
「ファン」というのは大袈裟な言葉ですが、果たして僕の表現を最初に好んでくれた人というのは誰なんだろう?
おそらくプロ…というか、まあそれでお金をもらうようになってからの僕の表現で、それを最初に好んでくれたのはきっとヨメなんだろうと思うのです。
いつも最も近くで僕が何かを作っているのを見ていた人ですから。

でもそれを最初と言ってしまうと何かが違うと思うのです。
まだお金をもらう前から、僕たちはいつも何かを表現してきたし、きっとそれを好んでくれた人もいた筈。例えばプロになってからの仕事はほとんど知らないのに、僕が今も親友のファンであるように。



14歳のとき、僕にデザイナーになることを勧めてくれたのは母でした。
10歳かそれよりもっと前、毎日のように僕にアニメの人気キャラの絵を描いてくれとせがんできてくれる友達がいました。
ちょっと勿体ぶって描いてやる風を装いながら、僕はそいつのためにあらかじめ自宅で何十枚もの絵を用意して学校に持って行っていたものです。
あれから何年たつのかわかりません。


彼女は文章の最後に「そこにピアノがあるから」と記す前に、

5年経っても、私を見に来てくれた。 このおじさんに恩返しをする意味でも、ここに来れて良かった…

と記しています。


小学校のとき僕をおだててどんどん絵を描かせてくれた友達や、
僕に地獄へと足を踏み入れる引導を渡してくれた母。
ずっと一緒にデッサンの練習をしてくれた親友。
深夜家に帰ってもずーっとデザインのことばかり考えている僕を、ときどきは怒りながら、それでも温かく見守ってくれたヨメ。

僕はそんな人たちにどんなことをすれば、どんなことをし続けていれば恩返しができるのでしょうか?


「そこに◯◯があるから」


その言葉にすべての答えがあるような気がするのです。
鶏が先か卵が先か?
そんなことは問題じゃありません。


まずそこに力ありき。そして同時に、そこに感謝ありき。



そこにあるもの_d0105218_444660.jpg引用も含めて長々とお時間をとらせてしまいました。すみません。
最後にもう一曲だけ紹介させて下さい。
「そこにピアノがあるから」と言う、彼女のピアノの演奏です。
こんな風に表現ができたらいいなといつも憧れているのです。
by chii-take | 2008-03-17 04:12
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