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あらためて…。
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ここに書いているようなことは、
そもそも、1年前に入会したSNSミクシィの日記で書き始めたことです。
「ちいたけ」はそこで使っていた名前。
今はミクシィからリンクをはって、そこで知り合った人たちにも更新が伝わるようにしているのですが、
先日このブログをIEで表示したら正常に表示されていないことがわかって、急遽ミクシィの日記を復帰させてみたところ、いわゆる“マイミク”の方から多数のエラー報告を頂いて、なおかつ改善策まで教えて頂きました。
(まだ表示おかしい人いませんよね?)
あらためてミクシィの凄さを思い知った次第。
このブログはマイミクのみさなんのおかげで成立しているのだなとものすごく感じました。

先日あるマイミクが、(この書き出しをいままで何度使ったことか…)

「ミクシィの“人と作っていく感じ”が好き」と言っていました。

このニュアンスは前後の流れがないと正確には伝えられないのですが、
見ず知らずの人どうしでもお互いの情報にアクセスできる状態で、
安心して意見を出し合え、お互いの考えを知り、そこから派生してくるものまで含めていろいろなものが得られる場所になる。
その場所をつくってる感覚がいい、ということだと僕は受け取ったんです。

実際にミクシィの恩恵を受けてブログを立ち上げてみて、
この場所をそれに変わるものにすることなんて絶対にできないと今は思うのですが
(コメント入力者の情報が分からないということが最大の違い…)、
それでも招待制の壁の向こうにいた人たちの訪ないをかすかに聞きつけると、
ミクシィの中ではあり得なかった可能性も垣間みます。

今なんとなく願うことは、
これまでいろいろ話を聞いてくれたマイミクのみなさんには、
変わらずこれからもちいたけをよろしくお願いします。
ということ。

ミクシィとは違う所からここに来て頂いた方には、
是非ミクシィ入会をオススメします。
キラキラした宝物がたくさん落ちています。
僕が招待状出します。是非。

ここはそんな小さな小さなミクシィへの覗き穴にもなれたらいいかな。
そんな風に思う、今日この頃です。
宣伝でした…。

ブログは基本的にはブロガーが情報を発信する場所だと思います。
でも1年間ミクシィをやってて思ったことは、
述べたことより、教えてもらったことの方が多かった…。はるかに多かった。
教えてもらったことで僕は少しづつ変わってこれたし、
これからももっと変わる(予定)…。
やっぱりここもそういう教えてもらえる場所にしていきたい。
そのためにこれからも変わらず僕は述べていこうと思います。

ミクシィでも書いたけど、
今日はあらためてもう一度、この文字について…。

【知】
白川先生によれば、この文字は「矢」と「口(サイ)」で構成された文字。
「矢」は神聖なものであり、神さまへの誓約のしるしとして、これを折る習わしがあったといいます。
そのため「矢う」と書いて「ちかう」とよむそうです。
「口(サイ)」は神さまへの祈りの言葉をいれる器をさします。
神さまに祈り、神さまに誓うことを【知】といい。「さとる」の意味に用いたそうです。

「知る」ということは、「さとらせてもらう」ということ。

知りたいのです。
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by chii-take | 2007-02-28 21:54
気持ちの問題だ。
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普段の僕を知っている人にはあまり信じてもらえそうにありませんが、
僕はわりと気性の烈しい性格です。

職場で「仏のちいたけ」とか呼ばれたりしてますが、仏なんてほど遠く、
気持ちはほとんど「阿修羅」のようです。

そんな僕だから、頭に血が上ってしまって、
どうにも自分で自分をコントロールできなくなると、決まって開くのがこの本。

論語です


こんなくだりがありました。

『子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし。』
(先生は四つのことを絶たれた。身勝手な心を持たず、無理おしをせず、執着せず、我を張らない)

正直耳が痛いです。
気持ちが強まれば強まるほど、強くなるのがこの意、必、固、我。
いつもこいつに振り回されます。


こんなくだりもありました。

『唐棣(トウテイ)の華、偏として其れ反せり。豈に爾を思わざらんや、室是れ遠ければなり』
(庭桜がひらひらとかえっている。あなたのことを思っても、この距離が遠すぎて…)
いにしえの人の、遠い所に居る大切な人を思う切ない歌です。
孔子はこの歌を次に続く一言で両断します。

『未だこれを思わざるなり、それ何の遠きことこれ有らん』
(まだまだ思いが足りないのだ、しっかりと思ってさえいれば何の遠いことがあるものか)

要は気持ちの問題だ!くだらん!
と言っているわけです。


思いを深めることが、意、必、固、我を強めることではないはずです。
それはいわゆるエゴだから。
だから先生はそれを捨てた。
じゃ、何をもって思いを深めるのか、先生は簡単には教えてくれません。
『未だこれを思わざるなり』ではなかなかどうしてわからないのです。


ん、こういうことか?…。
「自我」の反対語は「非我」

大辞林によると。
【非我】 
認識や行為の主体たる自我に属さず、その外にあるもの。自然・世界など。
自我の働きに抵抗し、自我の自己実現の手段となる。


自然・世界など?…

でかい、でかすぎるよ。先生…。
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by chii-take | 2007-02-24 04:53
僕の祈り
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物語が好きです。
人生は物語そのものだと思うし、人の心もまた物語でできています。
物語のないグラフィックなんておもしろくもなんともないし、
物語こそが表現の出発点であると同時に終着点だとも思うのです。
何を言ってるのかわかりませんが…。

今日は鉄の話…。

古代中国において鉄器は特別な意味を持っていたようです。
とりわけ「思い」ではなく「強い意志」を表現するとき、鉄器をモチーフに文字がつくられました。

【祈】
現在ではどこかおとなしい響きのあるこの文字。
古くは「單(たて)」のよこに「斤(ておの)」を書いて、
敵の盾を打ち破って戦を勝利に導く必勝祈願の文字としてデザインされました。
(※ちなみに「單(たて)」のよこに「戈(ほこ)」を書くのが戦という字です)
時代と共に異民族の追放や統一国家の成立という環境の変化があり、それに伴って、【祈】という字から戦勝祈願の意味合いが薄れ、「單」の替わりに「示」をつけることで、より広い意味の神さまへの「いのり」の意味になりました。
(※「示」が変化して現在の「ネ」になったのがいわゆる「しめすへん」です)

【祈】のように「斤(ておの)」を持つ漢字には他に【折】があります。
この漢字の「才」の形は元々草木の形を表しており、いわゆるてへんとは出所が違います。
古代では草木を摘むことや矢を折る行為は「ちかう」という意味を持っていました。
何かを失ってはじめて何かが得られるという言葉を思いだします。

「斤」の他にも意志を表す鉄器があります。
それは「辛」という鉄器で、今では「つらい」という意味を持つこの文字。
元々は罪を犯した者に刑罰として入れ墨を入れるときに用いた針の名称です。
【言】という字は今でこそ単純に言葉を発するという意味でしかありませんが、
文字の成り立ちは「口(さい)」という神さまへの言葉をいれた器の上に、この「辛」を置いた形からできていて、自分の言ったことを守れなかったときはこの「辛」で突き刺されてもいいという意味です。これを人に対して約束することを「信」というのです。

【折】【言】
この二つの文字。
「求めるものを得るために、別の何かが必要であるならば、あえてそれを手折り、そうまでしてでも求めるものが得られなかったときには、あまんじて針の痛みと罪人の誹りをも受け入れよう」

そんな峻烈な意志を持った文字が【誓】いです。

太宰が名作「走れメロス」で描こうとした物語はまさにこれです。

そして、そう。それが僕の祈りです。
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by chii-take | 2007-02-22 03:16
未来をみつめて
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その昔、“描く”ことは“視る”ことだと教えられました。

未来を描こうと思うなら、未来が視えていなければならない…。
じっと目を凝らして、うーんと遠くまで。


そういえばナウシカにこんなセリフがあった。
「心で見るんだって…」
「見たいってうんと思えば……」
「テパ、風を見るのよ。ほら目をあけて鳥になったつもりで」
「こわがらないでよーく目をあけて」

“ビジョンを描く”、簡単なことではありません。実際。



以下は白川先生の辞典から。

【視】
『ネ(しめすへん)』の原形は『示』。神さまへ祈る祭壇を表す。
『見』は跪いた人の上部に目を強調して表した形。
神さまに祈ってその示すところを仰ぎ見ることを意味する。

【未】
『木』に横棒を付け加えることで枝が茂っている木の形を表す。
鋏を使って樹木を剪定することを『制』といい。
『未』は剪定される前の樹木を表しており「いまだ」の意味に用いられる。

【来】
立っている麦を横から見た形。
周の王朝を興した王が小麦と大麦を栽培して国を繁栄に導いたことから、
「きたる、くる、もたらす」の意味に使用する。


未来を視る。
それは、育てながら祈ること。いつかその枝に緑が繁る日を思い描いて。
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by chii-take | 2007-02-21 01:09
夢をみる人。見させる人。
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「人生で一番大事なものはお金じゃなか。夢ばい!」
「でも夢は実現せんでもそいはそいでよか。しょせん夢は夢けん!」

佐賀のがばいばあちゃんの名言です。


僕が僕自身の夢のために何かゴソゴソすることで、いつもヨメは振り回されているけれど、ヨメはいつでも最後にはそれをゆるしてくれる。
不安になってそれはなぜかと訊いてみると、
「どうせその夢はかなわないから…」と言う。

矛盾している、と思う。


【夢】
眉を太く強調した巫女が座ってお祈りをしている形と「夕」とを組み合わせた形。
古代中国では夢は不吉とされていて、巫女が行う呪術によって夜(夕)睡眠中にあらわれるものとされていたようです。
それで【夢】は「ゆめ、ゆめみる」の意味になったと、白川先生の『常用字解』にあります。
要するに呪いということですね。
僕は何かの呪いに取り憑かれているのでしょうか?

でもこうも思うのです。巫女の祈りは呪いのためだけにあるわけではないと。

夢魔に憑かれた僕の悲願である奈良移住。ヨメと奈良に通うこと4回。
そこでの住まいが先日ようやく決まりました。
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by chii-take | 2007-02-19 23:39
心に期すもの…
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別に隠しているわけではないけれど、人に話せないでいる事ってないですか?

それは言ったって仕方のないことであったり、自分と相手との関係上必要のない事柄であったり、
事情は様々ですが、とにかくあえて触れないでいること…。
たぶん誰にだってそういうことの一つや二つはあるはずです。
そう、僕にだってあります。

今日ある人のそんな話を聞きました。
もちろん隠されていたわけでも、嘘をつかれていたわけでもないので、
単純に驚いたという以外、言うこともないのですが、
思うところはたくさんありました。

白川先生によれば、【偽】という字には化(かわる)という意味があり、本当のものではない「にせ」という意味に用いるといいます。
また【虚】は、かつて都があった土地が廃墟になり建物のあとだけが残された状態を表していて、現存しないもの、「むなしい」の意味となり、中味がないので「うそ、いつわり」という意味に用いたそうです。

この二語には、どうも後ろめたいものを感じます。
今日僕が出会った出来事はきっとこの言葉では表現できないものです。


『常用字解』を眺めることしばらく。
やっとしっくりくる言葉をみつけました。
それは、


  【秘】   【密】


両の字にある「必」は矛や鉞(まさかり)などの武器の柄の部分に装着する装飾具の形を表していて、強く心に期す願いを込めた「かならず」という意味を持ちます。
【密】はその「必」に火を加え祓い清めた上で、祖先の霊の安寧を願った儀礼を表していて、「ひそか、やすらか、こまかい」の意味に用います。
【秘】は「必」と神様を祭る祭壇※を表していて、「必」を用いてひそかに、余人にさとられることなく神様に祈った儀式を表しているのだそうです。
(※『禾』”のぎへん”に見えるのは、時とともに『示』”しめすへん”が変化して表記されたものだそうです…)



人にさとられることなく、密かに、厳かに心に期していることを『秘密』という。
それはうしろめたいことではないのです。

それは、ただ言葉にしていないだけのこと、話す必要のないこと。
でも心を許した人には自然と話してしまうこと、それが『秘密』なのだと思います。

知ることができて、きっとよかったのです。

ちなみに僕の『秘密』というのは余人にとって「だから?」というような事柄です。
そんなもんです。よね?。

でも、やっぱり僕にとってそれは、心の深い所に期している事柄なのです。
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by chii-take | 2007-02-17 05:12
拝啓 白川先生
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随分前の話ですが、大学時代に学科の選択科目で論語についての講義を受けたことがあります。
毎週末夕方、他から招いた非常勤講師による授業はとっても人気がなくって、聴講者は僕をいれて2.3人だけ。ときにはマンツーマン。贅沢な講義でした。
通っていたのが芸大であり、一般教養ではない学科専門の授業で「論語」というのですから、さもあらんと言ったところです。
当時の学科長の個人的なこだわりで組まれたカリキュラムだったわけですね。
(もうひとつそんな感じで古墳発掘の講義も受けたのですがその話はまた別の機会に…)

その講義の中で出会ったのが孔子の考え方を入り口にした古代中国の儒教思想であり。それを理解するための“手引き”となっていたのが白川静先生の(漢字の原初の意味を探る)漢字学だったわけです。

白川先生は甲骨文字や金文、篆文の字形を研究しながら漢字の成り立ちを推察し、「字統」「字訓」「字通」の3つの辞典にまとめあげて漢字研究の第一人者となられた方です。

幼い頃から「なぜなに少年」だった僕の、抱えきれないほど膨らんだ多くの疑問に、漢字の意味を通してすっきりした答えを用意してくれた白川先生の手法はもう魔法のようなものでした。

孔子の教えは、「とにかくこうでなくてはならないよ」という有無を言わせぬ厳格なものがほとんどなんですが、白川先生の研究を元に論語を紐解くと「これがこうだから、こうでなくてはならないよ」というふうに事情を理解できるようになり、その変化は塞き止められていた溜まりが心地よい清流の流れに変わるような、そんな経験でした。
一年を通して窓の外から感じられた四季の移ろい、それを肌で感じていた古代の人の感性が漢字を通して、論語を通して伝わってくるような、そんな講義でした。

その感覚を再現することがこのブログで僕がやりたいと思っていることのひとつです。

丁寧に教えていただいたその非常勤の恩師のお力は借りれませんが、白川先生と孔子のテキストがあれば、僕にもできるかもしれない。その思いから多くの引用を使って言葉を綴っています。
写真は、受講当時の窓の外の移ろいの替わりになればいいなあと思って掲載しています。本文との関連はきっとありません。
今僕が見ているものです。


一年の講義が終わろうとする頃、その非常勤の先生から
「いつか君と二人で酒を呑みたいなあ」と言われたのですが、
当時非常につきあいの悪かった僕は、色よい返事ができませんでした。

なぜ

「行きましょう!。いますぐに」

と言えなかったのか、
今それがかすかな後悔です。
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by chii-take | 2007-02-15 12:32
在心曰志 発言曰詩
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「詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言に発っするを詩と為す」

【志】という漢字の原初の意味を知りたくて、白川静先生編集の辞典『常用字解』を開きました。
そこに記されていたのが、上記の一説。
古代中国の教科書『詩経』にある言葉だそうです。


僕の名前は【健志】というのですが、ちょっと前まで『健康』を『志す』という意味だと思っていました。
(いや、実際そうなんですが…)


でも白川先生の語る【志】を知って、少し感じ方が変わりました。

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【志】
音符は士。字の上部の士はもと之(し)の形である。
之は行くの意味であるから、心がある方向をめざして行くことを志といい、
「こころざす(心がある方向に向かう。心に思い立つ)こころざし」の意味になる。

志は古くは心に在る、心にしるすの意味であった。
志は誌(しるす)と通用する。
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僕はこの記述を見て、自分の名前の意味を少し歪めて解釈してみようと思いました。
それはこんな感じ、
 『心のままに之こう。いっそう健やかに…』。
そう思うことで、きっと僕自身の何かが変わるから…。


毎日が思考錯誤の繰り返しです。
何が僕と僕の家族の未来にとって最善なのか…、答えは誰にもわかりません。
でも、とりあえず今は(家族が共感してくれる限り)心のままに行こう。
今ある暮らしを根底から変えてみよう。そう思うのです。

拙く朧げな写真と共に、その過程を記録してみようと思います。
それが僕の詩(うた)になれば素敵だし、
何かエネルギーを誌すことになるかもしれない…。

それがこのブログ『在心日誌』立ち上げの動機です。
以後よろしくです。
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by chii-take | 2007-02-15 02:27