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お休みのお知らせ
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どうもお世話になっております。ちいたけです。
いささかすっきりし過ぎていますが、在心日誌はこの場所からお送りしておりました。

念願かなっていよいよ今週末引っ越します。<(_ _)>
つきましては暫くネット環境がなくなりますので、
当分の間、更新はできないだろうと思います。
(携帯等でチェックはしてますので、皆様の所へは行きますよ)

「遂に倒れた」とか、「行き倒れて行方不明になってる」とか、
そういうことはありませんのでどうかご心配なく。

次回更新はきっと奈良から、
光ファイバー回線でお目にかかりたいと思います。v( ̄ー ̄)
では。


【越】
『走(そうにょう)』の上にあるのは鉞のもとの字で、まさかりの形。
困難な場所を越えるときにまさかりを呪器として使うことがあったのであろう。
『往』が神聖なまさかりの上に足を乗せて鉞の霊力・威力を身に移して出発することであったように、
まさかりの呪力を身に受けて行くことを【越】といい「こえる、こす」の意味に用いる。
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by chii-take | 2007-03-26 00:29 | Comments(4)
最初の約束
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今日はある知り合い女の子の結婚式2次会に招かれて京都へお出かけ。
景品のニンテンドウwiiに目が眩んでゲームにマジになってた自分が恥ずかしい。

肝心のお祝いの気持ちは、相変わらずの口べたのせいで、
ろくに気の利いた言葉も述べられずにあえなくタイムアップ。
表現できなかった気持ちが夜になってくすぶってきたので、
毎度のことながらブログにアップ。

と言いながらやっぱりうまく言えないので白川先生にバトンタッチ。

【妻】
髪飾りを整えた女の形。
頭上に三本の簪を立ててさし、それに手をそえて髪飾りを整える女の姿。
それは結婚式のときの着飾った女の姿である。

と白川先生はいいます。

うむ。おしゃれなあの人にはぴったりな文字だ。
これからも文字通りの今日の気持ちを忘れずにいてほしいものです。


【結】
『吉』は神さまへの祈りの言葉を収める『口(サイ)』という器の上に、
小さな鉞の頭部(士の形)を置いて祈りの効果を閉じ込め守ることをいう。
『吉』には閉じ込めるという意味があるが、
結ぶということにも、そこにある力を閉じ込めるという意味があった。
わが国の古代には、松の枝や草などの端を結び合わせるまじないがあったが、
それは魂を結び込めて生命の安全・多幸を祈る気持ちの表現であったという。
また紐を結ぶことが、男女の間の愛情を固め、約束するという意味をもっていたのである。
【結】は「むすぶ」の意味から、「つなぐ、約束する、固める」などの意味に使う。

というのが常用字解にある白川先生の解説。ほぼ全文です。
なんだかいつもより解説が細かく、
どこかの方向に偏っているように思うのは僕だけでしょうか?(笑)
白川先生の人柄がよく表れた内容です。

そう、結婚ていうのは約束なんですよね…。


【約】
『勺(しゃく)』は柄が少し曲がった形のヒシャクの形であるので、
糸を曲げて結ぶことを【約】といい「むすぶ、しばる、むすびめ、ちかい」の意味となる。
【約】は縄を結んでその結び目の形や数で約束の内容を示すので、
約束(ある物事について取り決め、将来それを変えないことを互いに誓うこと)をいう。


最後に僕の蛇足を付け加えると、
結婚っていうのは、恋愛とか特別な出会いの結果に実を結ぶことだけど、
夫婦にとってはきっと、たかだか最初の約束、最初の結び目に過ぎないのだな…。

僕は結婚して何年かたつけど、それが最近やっと実感としてわかってきた。
僕たちよりほんの少し若い夫婦に、今日はそのことを伝えたい。
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by chii-take | 2007-03-25 02:20 | Comments(4)
天才の飛翔
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先日ある画期的なクラシックのCDが発売になりました。
どういうCDかというと、
60年代に活躍したグレン・グールドというバッハの演奏を得意とした天才ピアニストのCDです。

僕はバッハが好きでよくこの人の演奏で聴くんですが、
とっても早くに亡くなった方なので今はもう新しい演奏を聴くことはできません。
それなのに今回発売されたCDは新録音ということで、今とても話題になってるCDなのです。

どういうことかというと、
グールドの初期の録音は当時の機材の影響でモノラルのものしか残ってなかったんですが、
それを高音質なステレオで再現しようということで、
アメリカの『ゼンフ』という録音データの解析ソフトを使って、
当時のモノラル録音の情報から、グールド本人が鍵盤を押したタイミングや強さ、
ペダルを踏み込んだ時間や加減をすべてデータ化して、
それをMIDIという演奏情報に変換して、MIDI装置を組み込んだ生のグランドピアノに自動演奏させて、
それを現在の最新録音機材でレコーディングしたものだそうです。


この録音がグールド本人の演奏と言えるのかどうかが巷の話題の焦点なんですが、
僕が思うに、これはバイオテクノロジーと同じでとても恐い技術だなあと思いました。
この技術は近い将来データの蓄積によって、例えばグールド本人が演奏したことのない曲でも
グールドのリズム感で、グールドのタイミングで、グールドの間の取り方で、
新しい曲が録音できるようになると思います。
もしそうなったら、一音楽ファン、グールドのファンとしてはうれしい限りなんですが、
若い演奏家にとっては、
それだけ自分の演奏を聴いてもらえるチャンスを逃すことになるのではないかと思ってそれを危惧して止みません。

それはスポーツで言ったら殿堂入りするような選手が、いつまでも永遠に現役でいるようなもので、
若い選手にとってはある意味悪夢のようなことだと思います。

僕も一応クリエイターの端くれとして、グラフィックデザイナーの端くれとして、
このことを考えると様々なことを思わざるをえません。
僕たちがまだ学校で勉強してる時代に、
『よいと思った印刷物のマージンや行間、テキストと画像の比率を実際に計って研究するように!』
と言われたことは、この過去の偉人の技を分析することに等しいと思います。
改めて考えれば、すでに昔から当たり前に取り組んできたことなのです。
それがコンピューターという箱を介することで思いもよらないレベルまで発展しつつあります。

グラフィックデザインに関しても、そのような情報を解析し再現するソフトウェアができれば、
いますでにある自動組版の仕組みと組み合わせて、
だれもが原研哉や田中一光のバランス感覚でレイアウトを再現できるようになるかもしれません。
そうなったときにグラフィックデザイナーは何を持って自分を立てればいいのか見当もつきません。

どんなコンピューターでもアイデアを生み出すことなんてありえないので、
その部分はデザイナーの聖域として残されるのでしょうが、
実際にレイアウトをしない、
手を動かさないデザイナーが考えたアイデアというのがどういったものになるのか、正直僕は不安です。

クオリティーの向上のために
グラフィックデザインとコンピューターが結びついてからもう何年になるのでしょう?
今では大量生産という命題のために、
どんどんコンピューターを使って自動化や効率化をすすめているこの社会。
その反面でとりかえしのつかないものを失っている面もあるのではないかなと思うニュースでした。


今日はちょっと恐いこんな漢字について…。

【幽】
『幺幺(ゆう)』と『火』を組み合わせた形。
『幺幺(ゆう)』は『幺(よう)』というねじった糸束を二つ並べた形。
それに火を加えて燻(くす)べて黒色にすることをいう。
その色は幽暗(奥深く暗いこと)であるから、幽微(奥深くかすかなこと。深遠で微妙なこと)の意味となる。
と白川先生は記しています。


最後に蛇足ですか、グールドは大変な変わり者で、晩年は生演奏を披露することを好まず、
もっぱらスタジオでの録音で、当時の機材でできる限りの実験的アプローチを試みたアーティストであったと知られています。
最新のコンピューター技術で自らの生演奏が現代に蘇っていることを、
グールド本人は幾分心よく思っているかもしれません。
天才は飛翔を恐れません。

僕は…。
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by chii-take | 2007-03-24 03:56 | Comments(0)
カバとアニメとバカ息子
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スタジオジブリの新作が決まったそうです。
巨匠宮崎駿監督の手がける新作は、自身が若い頃にアニメ制作にかまけてばかりで幼い息子にちゃんとかまってやれなかったことの後悔の念から思い立った作品なのだそうです。

それを聞いて、真っ先に息子さんの吾郎監督が描いた映画「ゲド戦記」の中で、
主人公アレンが父王を刺し殺すシーンを思い出しました。
そして吾郎監督の「このシーンを入れなければ映画を作れなかった」という言葉も…。



僕の父はお世辞にも偉大な人間とは言えません。
ニコチン中毒で、アルコール中毒で、カフェイン中毒で、TV中毒で…。
ダメな親父ポイントを挙げていけばキリがありません。
尊敬なんてありえない親父です。

でも、たぶん男の子にとって父というのはみんなそんなものだと思います。
10代の頃に父親のことを素直に尊敬してたやつなんて(僕の知っている限り)ほとんどいません。
駿監督は吾郎さんの5才の頃の接し方を気にしているようですが、
5才の少年の世界に父親が与える影響というのは、
正であれ負であれ相当積極的なアプローチをしない限りごく微少ではないかと思います。
少なくとも僕にとってはそうでした。

土日になると家で寝ているだけのカバ。
僕の見たいアニメ番組を録画しておいてくれる便利なビデオ番。
それが親父です。それぐらいの意識でした。
(オメェ誰の稼ぎで食ってきたんだ!という話は今だけ勘弁して下さい。)

10代の頃は父が嫌いだった。
あまりに無為すぎるその生き方が気に入らなかったし、どこかで軽蔑もしていた。
でもたぶん本当のところは、
何の理由もなく「父が父であるというだけで」嫌いだったのです。

それが20代も後半になって、ある日鏡に映った自分の顔の中に父の面影を見たとき、その気持ちはフッとなくなりました。
どうしてなのかは自分でもよくわかりません。
ヘマをして落ち込んだとき、そのヘマっぷりがあまりにも親父に似ていたから、
思わず若い頃の親父のことを想像してしまったときにも似たような気持ちを抱きました。

今思うと…、今だからわかることですが、
毎週末クラブの練習で忙しい息子のために、わざわざ休日の早朝に起きて、
土曜の晩に録画しておいてくれたアニメ番組を父が僕と一緒に観てくれていたということに、感慨深い感謝を思うのです。
ゲゲゲの鬼太郎、おそ松くん、もーれつア太郎、聖闘士星矢。すべて親父と観たアニメです。



でも、僕が父に対しての思いを新たにできたのは、たぶんその記憶ではなくて“経過した時間”なのだと思うのです。この歳になって親父と同じ自分をようやく見つけて、嫌っていたものの正体を知り、そいつが見えなくしていた親父という固有の生物のやさしさを知り、僕は今いろいろなことを思います。

エラそうなことは言えませんが、
駿監督が吾郎さんと過ごせなかった時間に生み出していた作品群が吾郎さんにとってどのような意味を持つものだったのか想像もつきませんが、
少なくとも、僕の父が僕に与えてくれた時間と並べてみたときに、
それがどこか1%でも遜色のあるものだとはけして思えないのです。

心理学の世界では“父殺し”というのは重要な意味を持っているそうですが、
そんな理屈なんてこの際どうでもいいです。
それはきっと男の子だけに目立って表れる“声変わり”のようなもの。

そんな息子の声変わりに今さら驚いた66才の親父の新作。
今から楽しみです。



【親】
白川先生によると、「辛」と「木」と「見」を組み合わせた形。
辛は把手のついた大きな針。この辛を投げて位牌を作る木を選び、
その木で作った位牌を見て拝む形が【親】であるといいます。
位牌を拝むのは親しい関係のものであるから「みうち、したしい、したしむ」の意味に用います。

また、「みずから」の意味にも用いる。と白川先生はいいます。


蛇足ですが、
今でもうちの親父は日曜朝に子供向けのTV番組を観ているそうです。
その心理までは僕にはさっぱりわかりません。┐( ̄ー ̄)┌ 

そしてもう一つ蛇足。
親父自身はまったく関心もなく似顔絵ひとつまともに描けない人ですが、
僕を美術系私学の高校に3年、同じく大学に4年、
のべ7年間も通わせてくれたのは、まぎれもなくこの父なのです。

感謝。m(_ _)m
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by chii-take | 2007-03-21 03:19 | Comments(0)
落ち込むこともあるけれど…
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「あの、私この街に住まわせていただきたいんです!」

昨日衝動的に観てしまった映画「魔女の宅急便」で、
ヒロインのキキがこれから暮らす街に初めて降りったったときに言ったセリフです。
映画を観ながら、「おいおい、13歳の女の子の気持ちとシンクロしてもうたで…」とか思いながら少しへこみました。
確かに奈良引越にあたって猫と暮らそうとか企ててましたがそれはダメだったし、僕といっしょにいるのは猫でなくて人間のヨメです。
BGMだってきっと軽快なユーミンの音楽はかからないし(涙)。
何より僕はもうすぐ30歳のオッサンなのです。

違う、違い過ぎる!。ヽ(`ヘ´*)ノ

こんな少女の気持ちとシンクロしてて大丈夫かオレ?
と冷や汗タラタラです。

劇中で、初めて暮らす街での糧を得るために、持てる才能を最大限活かして人の役に立とうとする少女の姿は、瑞々しい活力に溢れていました。

昔からずうっと考えていることなんですが、
「在」るということの意味を思わずにはいられません。

【在】
白川先生によると、
古い金文や甲骨文には【在】の文字はなく、
元々は『才』と表されていた文字だそうです。
後の時代に『才』の横に小さな鉞の形『士』をつけて『才』を守る形を表し、その存在を確認することから「ある」という意味を専門にあたえられた文字だといいます。

【才】
標木(目印の木)の枝に「サイ」という神さまへの祈りを入れた器をくくりつけ、その土地が神聖な土地であることを示した儀式を象っているそうです。
元々は「聖なる場所としてある」という意味を持った文字。
後の時代に「はじめから存在するもののうちにある働き」の意味として、才知や才能の意味に用いられたそうです。


【在】るということは【才】を守り活かすことだと、
僕は思いました。

ちなみに
【才】と『子』を組み合わせた形が【存】で「聖なるものとしてある、生きる」の意味になるのだと白川先生はいいます。


僕にも本当に才はあるのだろうか?、
仮にあるとして守れるのだろうか?
守れたとして活かすことはできるのだろうか?

映画「魔女の宅急便」でキキが一時的に魔法という才能を失ったとき友達の画家に訊ねます。
描けなくなったときどうしたの?

友達は答えます。
「描いて描いてかきまくる!」


今よりもっともっと若かった頃、
あがくように毎日毎日描いて描いて描きまくっていた時代が僕にもあったなぁと思い出しました。

在るというのは、
これをずっと続けていくことなのです。


引越まであと17日。
「落ち込むこともあるけれど…」

この続きが言える日を目指して荷造りに励む毎日です。


 …どうでもいい話、荷造りはじめた初日に夫婦そろって腰を痛めました(ノ_<。)
でも、ま、がんばります。
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by chii-take | 2007-03-14 02:42 | Comments(6)
私の花咲か爺さん
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今日職場の同僚と話していて、こんな話題になりました。

「不思議と春は良い報せが多くなりますね…」

そうかな、と思いつつ聞いていると、
なんでも一日の内に二人の知人から出産や結婚の報告を受けたらしく、
そのことをまるで自分のことのように嬉々とした笑顔で話してくれました。
僕とは全然関係ない人の話だけど、その同僚の笑顔を見ていると僕まで嬉しくなってきます。

親しい人の笑顔ほど心を和ませてくれるものはありません。

思えばその同僚の周りはいつも笑顔が溢れています。
僕とはまったく違ったタイプのデザイナーで、
お仕事のグラフィックにさえ、見る人の笑顔をクリエイトする力を宿らせる類稀なデザイナー。
犬が好きで、立派なヒゲをたくわえていて…、
考えたらなんかあの人に似ている…。


春です。今日はこういう漢字について、

【咲】
白川先生によると、古代に【咲】という文字はなくて、
花の開いた姿が、人の笑顔のように華やいで見えることから
【笑】という字を元に【咲】がつくられたといいます。

【笑】は巫女が神さまに祈り舞っている姿を表していて、
それは“神さまを楽しませる”ための舞いであったといいます。
その様子を【笑】といい「わらう、ほほえむ」の意味になったと『常用字解』にあります。


あと何回、あと何日、この人とデザインの話ができるのだろう?
満開の花々を見ながら、変わらない笑顔に多くのことを学びながら、
明日もきっとこの花咲か爺さんと話をします。

もっともリスペクトする、私の同僚。
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by chii-take | 2007-03-09 02:51 | Comments(9)
おもひでの場所
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人を思う時間がとてもとても増えています。

先週土曜日、親父のハンコをもらいに実家に行って、その足で新しい賃貸契約のため再び奈良へ。
奈良県北部縦断の旅。
途中、懐かしの母校による。

特に何かを期待していたわけではないけど、
行けば何がしか得られるものもあるだろうと思って、衝動で途中下車。
けれど、あいにく学校は部活動に勤しむ生徒の音も聴こえず、まったくの無人。
久々に見る美術科棟の扉もぴしゃりと閉まっていた。
(これがうわさのゆとり教育?)

何気にカメラを抱えて校内をぶらぶらしてみたけれど、
恐ろしいほど撮りたいと思えるものがない。

そこは確かに記憶の中にある風景。
だけど本当にここに通っていたのだろうか? と、
記憶を疑ってしまうほど、それは味気ない風景…。

ふと先日の日記に書いた『虚』という字のことを思いだす。
かつて都があった土地が廃墟になり建物のあとだけが残された状態を表しているこの文字。
本当にそんな感じでなんだか歩いていても虚しかった。
実際に今通ってる在校生にはきっと息づいた場所なんだろうけど、
10年前に卒業した人間には何かが違って見える。

何が足りないのかというと、
それはやっぱり人。(当たり前だ!)

まず一人で来るべきではなかったし、
確実に誰かに会えるように下調べなり約束なりして来るべきだった。

結局、写真は一枚も撮らずそのまま退散。
帰り際、懐かしの画材屋が、母屋ごと大きく改装されていることに驚く。
面影まったくなし。記憶の迷宮とはこのことか?


【憶】
音符は意。
意は「音」と「心」から作られた文字。
「音」は「言」に横線を付け加えた形で、「言」は神さまへの誓いの言葉を意味する。

神さまへの言葉に対し、その回答が「おとない」として「音」に表れる。
それを心を持って「おしはかる」ことを「意」といい。「意志」を表す。
もう一つ心をつけて「意」を思いおこし、おぼえることを「憶」と表す。

過去のことを振り返り、そこに思いを馳せることを、とくに【憶う】という。


でも、今回思い知ったことは、「思い出」というのは「憶い出」とは書かないということ。
「思い出」はやっぱり人を思うこと。

写真は奈良市の街角で撮ったもの。
この街では恐ろしいほど、シャッターが降りる。不思議だ。
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by chii-take | 2007-03-06 03:10 | Comments(0)
出会いと別れの季節
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ずっと春の訪れを待ち望んでいたくせに、
実際に風の匂いに春の気配を感じるようになるとちょっと複雑です。

最近、“出会い”と“別れ”についてよく考えます。
学生の頃、春はまさにその二つの出来事に彩られた季節でした。
一斉に大勢の仲間と出会い、一斉に大勢の仲間と別れる。
あまりに大勢すぎて、僕はその大事な季節の意味を感じとることができませんでした。

一部のとっても大事な仲間、親友と呼べる仲間とは、その後も変わりなく関わりを持つことができたから、
その他の大勢の仲間との大事な“可能性”が遠ざかっていくのを、僕は知らずに見過ごしてしまった。今思えばそれが大きな後悔です。それが僕の春でした。

社会人になって、春は新人との出会いの季節になって(ときにはその新人もいないこともありますが)、僕はこの季節の切なさを知らないままに今までやってきました。
でも歳を重ねるにつれ、“一斉の別れ”ではない、“一人一人との別れ”を何度か経験し、“会えなくなる”ことの重大さ、切なさを思い知りました。
(それと同時に“会える”ことの喜び、その当たり前の奇跡にも気づくことができました…)

ふと思うのは、冬が終わらなければいいのに…、とか。
そんな思いでいっぱいだったりします。
あの頃、あの季節にもそういう風に思えていれば、
今の僕はもう少しましな人間だったかもしれない。
(わかってます。もちろん今からでも遅くない!)

ちょっと前の日記にも書きましたが、
今当たり前に目の前にいる人のことを、当たり前だとは決して思わないで下さい。
そう思っていると、いつの間にかその人はいなくなっています。
そしていなくなったことに気がついても、再会することは本当に至難の技です。
いや、たぶん気づくことすらできないと思います。

今当たり前に目の前にいる人たち、
よ〜く目を凝らして視たら、ほら大事な人がすぐそこに居る。
居るんです!。



どんなに後ろを顧みても、やっぱり春はきます。
なら前を向いて進むしかない。
どうしても別れなければならなかった分の、新しい出会いを求めて。
今はそんな心境。



【春】
白川先生にも分らないことはあるらしく、
この文字の成り立ちについては明記がありません。
白川先生以降の研究者の文献にも明確ではありません。

古く甲骨文には季節の文句はなく、金文の時代に初めて表れた【春】の文字は、
今とはまったく違う文字で、「艸(草かんむり)」の下に「屯」、その下に「日」を書いて表されました。




こんな感じ

「屯」は、冬の間とじ込められていた草の根を表していて、
それが「日」の光を浴びて、「艸」に表されるように芽を出した姿を描いている。
というのが白川先生の説。
その文字が後の時代【春】に変わったいきさつは一切記述がありません。


白川先生にわからないものは、当然僕にもわかりません。
でも“わからない”ということが僕には妙に納得できるのです。

「草の芽吹き」、その“躍動感”、“喜び”だけでは表現できない何かが、
この季節にはきっとあります。
それを確かに感じながら、受け取りながら、
もう一つの言葉にはならない感情にも思いを馳せずにはおられません。

【春】はそういう季節。
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by chii-take | 2007-03-04 04:06 | Comments(2)