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土と共に生きよう…
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「土に根を下ろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を謳おう…」
「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても…」
「土から離れては生きられないのよ!!」



宮崎駿が描いた映画「天空の城ラピュタ」のクライマックスで、ヒロインのシータが叫んだ言葉です。

幼い頃ふむふむなんて言いながら解ったつもりで聞いていたこの言葉。
実感として理解したのはつい最近のことです。



僕はカメラだけじゃなくて趣味で楽器もさわるのですが、
僕の使ってる楽器の一部は、“ブビンガ”という木の繊維密度が高くてすごく重い木材を使用しています。
原産国のカメルーンでは伐採禁止になっている希少種です。
(なっていた…かも知れない、今はどうか分らない…)
楽器に使用する木材としてはわりと有名な種類なのでカメルーン以外の隣国から供給される資源で、今もこの木材は楽器用に使用され続けています。

正直そんな希少種を使って楽器を作ってほしくはないのですが、
僕のお気に入りのドイツのメーカーは、
「その木材を使用しているからこそ、我々の音が出せるのだ」
と言ってはばかりません。
そして僕もその音が気に入ったからこそ、そのメーカーの楽器を愛用しているのです。


これは僕にとって大きなジレンマです。


音を鳴らす度、高密度の美しい低音に、この楽器にめぐり逢えてよかったと思うのですが、
その反面ネックに使用されている濃茶褐色のきめ細かい木を見ると切なくなります。

代替えの品種もあるようなのですが、その代替種の説明を読んでいて、
結局木を使ってることに変わりはなく、多いか少ないかを問題にしていても意味がないことに気付きました。
希少種を使っていたからこそ気付かされた、
木本来の大事さを思い知ったのです。



僕の音楽(と呼べるほどの趣味じゃありませんが)を表現するにはこの楽器が欠かせない。

としたら、

遠いアフリカの地の貴重な木を伐らなければならない。

としたら、

僕は無性にそれが切なくて、それでもそれを求める自分にどうしても腹がたって…、

そうまでしてやり続けるこれって何なんだ?

って思ったり、

わからないけど、
だとしたら、

僕の音楽にはそれだけの価値がなければならない。(いや、到底ないんですが…)

と覚悟するわけです。



音楽だけじゃないですよ。服飾しかり、印刷しかり、家具製造しかり、重工業しかり…

道具を持ち、ものを表現し、何か作るというのはそういうことなのです。
土と共に生き、土を傷つけながらも、その価値を生み出そうと必死に祈ることです。



とまあ、そのようなことを、ある友達が僕に教えてくれました。
楽器になぞらえはしましたが、実はこれは受け売りの話です。



白川先生はこう言います。

『国語の「つくる」に、あるものをつけ加えて「つくりごと」とする意味があるのは、
 本来「つくる」という行為が自然に背くことであり、
 自然を変更し、手を加えることを目的とする行為であったからである。(文字逍遥より)』


もちろんこれも受け売り話ですね。

僕は、そんな話を聴いて、
自分がものをつくろうと思うとき、
集中すれば集中するほど、
無性に悲しくなるのを
ようやく理解することができました。
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by chii-take | 2007-05-29 03:01
虹の架け橋
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空がこんな色をしてた頃、
みんなが、わーって不思議そうに空を見上げてた頃、
たしかに僕はいつものようにMacの前で仕事をしていました。
金曜日の夕方のことです。










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天気予報を聞いていたら、
なんだか今は偏西風に乗って中国大陸の砂が飛んで来る「黄砂」という現象が各地で観測されているらしいです。
wikiで「黄砂」を調べてみたら褐色雲をつくる事もあるという記述をみつけて、
「これか?」と思いましたが、どうもはっきりしません。

ま、そんなことはどうでもいいです。

今日の写真は僕が撮ったものではありません。
帰宅すると少し興奮気味のヨメが
「今日スゴかってさ!!」
といって見せてくれた写真がこれです。
異様な黄色い雲がすごいスピードで上空を横切っていたのと、
その反対側では若草山に巨大な虹がかかっていたのとで、
これは何か悪い事が起こる兆候ではないかと興奮気味にヨメは言うのです。

「何か起こるんちゃうやろか?」

いやいや。何も起こるはずはありません。

神さまがそこに写っているのを僕はたしかに見つけたから。

そこに写っているものが神さまであることを教えてくれたのも、
そういえば白川先生だった。

神さまはただただそこに在る現象。
僕たちが恭しく在れば、恐れるようなものじゃない。
とても美しく、生きる祝福を伝えてくれる存在。



【虹】
白川先生によれば、「工」はゆるやかに湾曲した半円形を表す文字なのだそうです。
「虫」はもともとは蛇などの爬虫類を表した文字で、特に蛇の形は「巳」と表され、
自然神を祭ることを「祀」というのだそうです。
「虫」は頭の大きな蛇の形で、蛇の元の字であると先生はいいます。


古代中国では【虹】は水神である双頭の竜の表象と考えられていました。
人々はその姿が現れれば恵雨もたらした存在として感謝の祈りを捧げたといいます。
…そういえば虹は雨の後に出るものですからね…(笑)。
(むろん旱魃もこの神さまの仕業であると考えられていました)

大地に豊穣をもたらす水の力を持った竜は、同時に女性に多産をもたらす存在としても崇められ、今に伝わる下のような祈りのうたが作られたそうです。
女性の結婚を祝福し、速やかな懐妊を祈願するうたです。

今日は虹にちなんでこんなうたを引用します。
中国の古い歌集『詩経』から「テイトウ(漢字が表記できません)」の一説です。


 テイトウ東に在り これをあえて指さすなかれ
 女子 ここに嫁ぎゆき 父母兄弟より遠ざかる。

 朝セイ 西にあれば 崇朝 それ雨ふる
 女子 ここに嫁ぎゆき 父母兄弟より遠ざかる。




テイトウというのは【虹】を意味しています。

(東に出たあの虹を、(無礼に)指さしてはいけないよ)
(あの娘が今、家族のもとを離れて嫁ぎ行くのだから…)

(西の空に朝雲が立ちこめれば、朝中雨が降ってくれるだろう)
(あの子が今、家族のもとを離れて嫁ぎ行くのだから)


遠く中国の砂漠から黄砂に乗ってやってきた竜が、
わざわざ災いをもたらすためにやって来たとは、僕には到底思えないのです。

虹の写真を見た瞬間、僕にはこの虹がかかった理由がなんとなく想像できたのです。
もちろん、それは僕の感じた理由であって、
人それぞれに違った思いや理由でこの虹を眺めたのでしょうけれど、
僕は妙に納得できて、それが嬉しかったのです。
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by chii-take | 2007-05-27 03:50
It's a small world.  
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世界がどんどん小さくなっていってる気がする!


いやいや、変な意味ではありませんよ。


「スモール・ワールド現象」って知ってますか?

知合いの知合いを辿っていけば比較的簡単に世界中の誰にでも行きつく、というあれです。

大体6人の知合いを経由すれば目的の人に辿りつけるのだそうです。
ミルグラムという人が最初に提唱した仮説なんだそうですが、
手紙を使って行われた最初の実験では、5%の手紙が到達したんだとか…。
実験の規模を大きくしたり条件を洗練させて検証していくうち、成功率は35%まで高まり、後の研究者は97%の成功率を確認したとの話です。
詳しくはここ。


webの世界ではSNSが大流行りで、僕自身mixiに登録しているので知合いの知合いを辿っていくことの可能性や強み、新しい出会いの喜びは実体験として感じています。
知合いの知合いを辿っていけば、国境を越えての出会いの可能性だってあるわけで、それはもうわくわくしてしまうような話です。






写真は日曜日の夕景。
三日月と空のグラデーションがキレイだった。
自宅の玄関を開けてすぐの風景です。

友達の日記を見ていたら、同じ日ではないかも知れないけれど、
どうやらこの月を見ていた人が他にもちらほら…。
そういえば写真撮ってたなと思い出して載せてみました。
初めての縦位置掲載。

そういう離れた場所にいる人とたまたま一緒の風景を見ることなんて、
昔から当たり前にあることなんだけど、
普段会わない人同士なら同じ月を見ていたことなんて当然分かる筈のないこと…。
webがあるからそんなことも容易に伝わる。
シンクロ、シンクロと微笑んでいるけれど、
やっぱり世界がどんどん小さくなっているんだと感じる。
それはもう時間も距離も意識しないほどまで…。

いや、違うな。

僕たちが認識できる領域がどんどん広がってるんだと思う。
それはもう地球を覆い尽くすほど、地球が小さいと感じれるほど…。


だけど、まだ戦争は終わらない。


どうして?


たった6人で繋がれる世界なのに…。
同じ夜空を戴ける世界なのに…。
争うことは止められない。

なぜ?
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by chii-take | 2007-05-24 01:09
僕と赤の物語
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中学生の頃、心の中になんとも表現しがたいイメージの葛藤を抱えていたことがあります。

目を閉じるといつも視界を覆い尽くすかのような色彩が溢れていて、

大半は大好きな青で埋められているんだけど、
その青が一番濃く集まった部分の対局に赤の集点があって、
その2点の間でときに赤が青の空間を浸食したり、
青が赤の存在を覆い尽くさんばかりに広がったり、
さまざまな状況を呈しながら常に僕の心の中にその2色がありました。

目を閉じたときに、赤のかたまりが僕の心の中で激しく動いて踊っているときは、
たいがい僕はとても怒っていて落ち着きのない状態だったので、
いつか僕の心の中で、赤は憎しみの色なんだと定義づけられていました。
中学3年生の頃です。

高校に行き、絵を描くようになってからは徐々にその2色のイメージは薄らいでいき、以前の日記に記した青への傾倒もなくなって、いつしか赤に対しても、そんなイメージを抱いていたことすら忘れるようになっていました。

白川先生の文字学を知るようになって、ふと目に留まった赤と青の文字の成り立ち。
その記述に僕は少なからず動揺し、愕然としました。

【青】
元々は「生」と「丹」を組み合わせて作られた文字で、
「生」は草木の生え出る形でそれらの色は度々青色に例えられます。
「丹」は絵の具の材料となった硫黄を含む鉱物のことで、それを採取する井戸の形が象られた文字です。
青の原料は青丹であり、朱の原料は朱丹といい、どちらの色も器の聖化に用いられたと白川先生はいいます。

【赤】
「大」と「火」とを組み合わせて作られた文字で、
「大」は手足を広げて立つ人を正面から見た形であり、これに「火」を加えて【赤】となる。
穢れのあるものに対して、祓い清める儀礼を象った文字であると白川先生はいいます。
そのため、赤は聖化された文字であり、「赤心」とは嘘偽りのない心、まごころをいい、
生まれて間もない子のこと「赤子」というのだと先生は解説します。



赤と青は僕の中でずっと対極に在ったものです。
そこに込められた古代の人の思いが、属性の違いこそあっても、
同じようにモノや人を聖化する色であるというなら、
僕は何を持って赤を遠ざけようとしたのか?…


まだ十代のずうっと若い頃からつい最近まで、僕は感情に対してこんな風に考えていました。

「感情のままに身をまかせてはいけない」
「こんなにもわがままな気持ちを人に対して振りかざしてはいけない」
「こんなにも激しく思い、苛立つのはきっと憎いからだ」
「でも誰をも憎んではいけない」
「だからこんな気持ちは持っちゃいけない…」


そう思ってずっと耐えていた多感な少年を今は少しかわいそうにも思います。
そうやって結局伝えられなかった、表現できなかった気持ちや思いがごまんとあるのです。
だけど、今はもうその思いを手にする事もできません。




「赤」の成り立ちを知って思い描いた風景には、
まったく別のもう一つの風景があります。

それは焚火です。
僕はあまりアウトドア派ではないのですが、
数少ないキャンプの経験ではいつも焚火の火を眺めていることが好きでした。(おい、働けよ!)

ガスバーナーの火とは違って、
木が燃えるときの炎のゆらめきを眺めていると、
とても素直になれました。
夕暮れ時、青く染まる自然の中で仲間を照らしだした暖かい焚火の炎。
そこでの語らいにはなんの見栄も衒いも遠慮もなかった。
当たり前のようにやさしい気持ちで自分の思いを語れたものです。
炎のゆらめきには何か余計なものを退ける力があるように思えてなりません。
不思議な力です。
こういう炎を心に宿すことができたら、僕はもっと素直に赤と向き合えたかも知れない。
でもあの当時の僕は心の炎をコントロールすることが出来なかった。
もしかしたら今も…。


何もかも素直になって表現することは、ときに焼かれるような傷みを伴うものです。
でもそれを避けては何も伝えることなんて出来なかった。
わがままかもしれないけど、素直な怒りや感情をそのまま伝えてもよかったんだと、
今は激しくそう思うのです。

焚火の炎のように静かに熱く揺らめく赤もあるんだと、
そんな感情で伝える方法もあったんだと、
あの頃の自分に教えてやりたい。



僕の中にあった赤と青のことを思うとき、僕は情熱という言葉を思います。

【情】
白川先生によれば
「青」を音符に持つ文字で、物事に感じて起こる心のはたらき「こころ」のことであるといいます。
中国の古い書物「礼記(らいき)」には、「学ばずして能くするもの」、すなわち才能であるとの記述があるそうです。「なさけ、おもいやる」の意味にも用いると先生はいいます。


【熱】
苗木を土に植え込む人の形を象った「ゲイ(上部の形)」という文字と、
下部のてんてんてんに表された「火」を組み合わせて作られた文字。
苗木を育てるには温暖な気温が適していることから、
火を加えて「あたたかいこと、あつい、ねつ」の意味に用いられるのだと先生はいいます。

この苗木を土に植え込む人の形を象った「ゲイ(上部の形)」の文字が、
後に「芸(藝)」の文字になったのだと先生はいいます。



僕はどんなにシビアな見方をしても、
ものを表現していくことでしか生きていけない人間です。

そのためには青ばっかりではやっぱり駄目で、
あの焚火の炎のような静かに熱く揺らめく赤を、
もう一度心に灯さなければならないのです。
今度はそれを憎しみだと誤解することなく、
その烈しさに振り回されることなく、
暖かい情熱の炎として心に灯さなければならない。
それが僕の“赤”です。


それを思いだしたきっかけも、やっぱり奈良。
あの燈火会の小さな、けれども無数の灯火を見てからなのです。
そしてあれから続く仲間との語らいが、僕にあの頃の赤を思い出させてくれました。
個人的なことですが、
僕はそれも奇跡だと思うのです。




写真は7年以上前のものです。
まだ学生時代にバイト先の仕事仲間と行ったキャンプでの風景です。
まだ出たばっかりのオリンパスのレンズ一体型デジタル一眼レフを使っていました。
その当時はスナップが得意だと思っていたんですが、今はほとんど人を撮ることはありませんし、
当時の写真を漁っていてそれが思い違いであることもはじめて知りました。

でも、焚火を囲んだ当時の仲間たちを見ていたら、今また無性に人が撮りたいと思うのです。
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by chii-take | 2007-05-22 02:53
連鎖する想い
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昨日、映画「バベル」を観てきました。


たった一つのこの世界に暮らしているはずの人々が、
様々な国に散らばってしまい、それぞれの国の言語で話さざるを得なくなった所以…。
旧約聖書における「バベルの塔」の伝説。

この映画はその伝説を背景に「心が通じなくなった」世界で、悲しみが国境をまたいで連鎖していく様を描いた、かつてないスケールの映画です。
今の時代の空気に…、というか、僕たちが日々抱えている不安やイライラにぴったりと共鳴して、それを増幅させるような、心を揺さぶるパワーに満ちた作品でした。



観ていてとても悲しかった。



登場人物たちは、みんな誰一人憎しみや悪意なんか抱いていないのに、
たった一丁のライフルから発射された一撃の弾丸が、誤解という不協和音を奏で、
悲しみが海を越えて連鎖していく。

一撃の弾丸が作り出したその巨大な悲しみの重さ、
価値観という圧倒的に高く冷たくそびえ立つ「心の壁」の存在に恐れおののきます。



それにひきかえ、
僕たちの生み出す一枚の写真。一枚の絵、一行の文章、一フレーズの音楽には、
いったいどれだけの力があるというのでしょう?
わかりません。


でも間違いなく言えることは、
僕たちもまた、誰かが表現したたった一枚の写真。一枚の絵、
一行の文章、一フレーズの音楽から、いい知れぬ喜びをもらい、
それに共鳴して自分たちの作品にその想いをのせはじめたのだと。

その想いの連鎖が、圧倒的に高く冷たくそびえ立つ「心の壁」を越えられないとは、僕には決して思えないのです。
僕自身がそうやって外から受けた感動を自分の表現にしていくことで、
自分というちっぽけな壁を乗り越えてこられたと思えるから…。


誰も憎しみ合ってなんかいないのに、
こんなにも愛しているのに、
伝わらない想いは、誤解と共に増幅していく。
もしこの想いが間違いなく伝えられたなら、
その喜びは感動と共にずっとどこまでも広がっていけるはずなのに。

どうしてなんだろう?
やっぱりそれはなかなかうまくは伝えられない。
伝わらない。

不器用だから?
うん。きっとそうだ。



今日は【憎】という文字の成り立ちを調べていて、
白川先生がその記述の中に引用した中国の古い書物「礼記(らいき)」の中の言葉について。


「愛して其の惡を知り、憎みて其の善を知る」


意味はよくわからないのですが、
負の連鎖を断ち切る秘密がこの言葉に隠されているようでなりません。
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by chii-take | 2007-05-20 14:16
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【命】という文字が好きです。

いのちとは読まないでください。

メイです。

運命のメイ。使命のメイ。生命のメイ。命名のメイ。


【命】
白川先生によれば、「口(サイ)」と「令」とを組み合わせて作られた文字。
「口(サイ)」は神さまへの祈りの言葉を入れる器。
「令」は跪いて神さまのお告げを受ける者の姿。
古く甲骨文では「令」を【命】の意味に使ったといいます。


もう何度も取り上げた字だけど、
【生】は草木の生え出る形。
草が発芽し、成長することから、「うまれる」「そだつ」「いきる」「いのち」の意味となるのだそうです。



どんな小さな生き物にも、持って生まれた役割というものがあります。

間違いなくあります…。余分な生なんてどこにもない。
みんなそれぞれ、色とりどりの命。


だからこんなにも、
こんなにも世界は美しいというのに…。
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by chii-take | 2007-05-17 03:40
車掌の本分
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【命】という文字が好きです。

いのちとは読まないでください。

メイです。

運命のメイ。使命のメイ。生命のメイ。命名のメイ。



昔、中学校の教科書に載っていた「車掌の本分」という物語。
今もよく思い出す物語です。

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ある遊園地で大流行りのお猿の機関車。
お猿さんが運転する機関車で子供たちに大人気。
人気のあまり、車両を増やしたら、お猿の車掌さんノイローゼ気味。

「忙し過ぎたんだ。」「過労だよ。」仕事を減らそう。
と話している遊園地のお兄さん。

お猿の車掌さん、それを聞いて「違う違う」とつぶやく。

お兄さんは気づかない。
車両を増やしたあまり、列車が線路を一周して、
最後尾車両に乗る車掌さんの背中を、
先頭車両に乗るの運転手のお猿さんが見つめていることに…。

運転手の背中とその後ろに続く乗客の背中。
それを見守ることが本分であるはずの車掌さんが、
運転手に見られているこのおかしな状況に…。
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今日勤め先の経営者と話をしました。


論語の中にこんな一説があります。
『子、まれに利を言う、命と与(とも)にし、仁と与(とも)にす』
(先生はめったに利について語られなかった。
 もし語られたなら、命に関連し、仁に関連してであった。)


関係ないといったら失礼ですが、
お金の話ではないのです。
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by chii-take | 2007-05-17 03:33
この日。
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5月15日は、ちいたけ家3年目の結婚記念日です。
毎年夫婦でその年一年の思い出の場所や時間をイラストにしていますが、
今まで一度もこの5月15日に間に合ったことがありません。
今年に至ってはまだ描き始めてもいません。
やはり遅れてもずっとずっと描いていこうと思い、今年は奈良の風景だなと考えていたら、
色々感慨深いものがあって、描き始める前にやはりこの気持ちを文章にしておこうと思いました。

3年前、
何も考えずに大阪に居を構え、
何も考えずにがむしゃらに目の前の仕事をこなし、
何も考えずに毎日を送っていれば、
それで幸せに暮らせると思っていたわけではありません。

今、
まるで詐欺師のようにヨメを奈良に連行して、
仕事のことを考えたからといって、
未来のことを考えたからといって、
それで幸せに暮らせるとも思っていません。


ただ今は奈良についてきてくれたヨメに感謝を思うのです。
こんなに嬉しいことはありません。
僕の未来を繋いだのは彼女であり、彼女の未来を繋ぐのは僕だけであると、
今日の日にあらためてそう思うのです。

奈良に来たことによって、
一段と遠くなった彼女と彼女の故郷との距離を、
僕はどれだけ埋めることができるのだろう?


孔子は言います。
『未だこれを思わざるなり、それ何の遠きことこれ有らん』
(まだまだ思いが足りないのだ、しっかりと思ってさえいれば何の遠いことがあるものか)


前に引用したときにはよくわからなかったこの言葉。
今は少しちがいます。
説明はできないけれど、

確かにそうです。そう思うのです。
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by chii-take | 2007-05-15 02:11
太子の耳。
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聡明な人と話をするのは楽しいものです。

僕はただの会社員ですが、
一応グラフィックデザイナーという肩書きを背負って通っているため、
会社では一応デザインの話ばかりしていることになります。

でもやっぱり話の大半はビジネスの話であって、
雑談も含めて社内における会話では、なかなかクリエイティブな刺激のある話はできません。

そういう毎日の中でときおり熱くクリエイティブの話ができる場があります。
それはどこかというと、以前にも話したことのある同僚(花咲か爺)と行く、1杯180円でラーメンが食える激安ラーメン屋さんです。


大体クリエイターという人種は余人には訳の分らないことを考えるもので、
非常に言葉になりづらいことを説明しなければならないときがあります。
そういうときは、ちょっとわかってもらえないかもなあと、
自分自身の話に充分警戒しながら喋るものですが、
この人に話すときにはそういう「壁」は一切存在しません。
警戒どころか、自分自身でどう説明しようか迷ってる段階で、
すでにこの人は僕の言いたいことをわかっているようなのです。

それは表情を見るとわかるんです。
あれ?、なんか伝わってるぞと思う間に向こうから返事が帰ってきて、
だから結局僕は何も詳しく説明しないままに、彼の的確な応答にさらされて、
それに舌をまいて、さらに深いところの話を心のおもむくままにしてしまうのです。
そうやって巷の激安ラーメン屋で一流デザイン事務所でも話題にしないような、
でかくて大袈裟でわくわくするようなデザインの話を二人で広げてしまうのです。
その時間は、それはもう何ものにも代え難い楽しみになっています。


話は変わりますが、
聖徳太子が十人の臣民の訴えを一度に聞いて、それぞれに的確な解決策を授けたという伝説を知っていますか?

僕はあれは嘘だと思っています。

大体そんな中国雑技団的な伝説を聞かされてもそんなに偉い人には思えませんし、
超人コンテストかギネスブックに載るのがせいぜいで、
「だからどうした?」とか思ってしまいます。

僕はあの伝説が本当に伝えたかったことは他にあったのではないかな、と思っています。
十という数字は日本やアジアの各国では「すべて」という意味を持つことが多いようです。
僕が思うに太子は、
どんな位や立場にある人間の話も、まるでその立場に立っているかのように的確に理解することができたのではないでしょうか?

「十人の話を一時に聞き分けた」
というのは、
「一人の人間が、すべての人々の価値観を理解して、受け入れることができた」
ということのメタファーではないかと思うのです。

価値観というのは多様なもので、
それは立場によっても様々に変化していくものです。
僕自身
「デザイナー、クリエイター」として、
「一社会人」として、
「一人の妻の夫」として、
「ただの一人の男」としての、

それぞれの価値観や言い分を持っていて、
そのせめぎ合いがあるからこそ、いわく言い難い思いを抱えてもんもんとする日々を送っています。
かろうじて「クリエイター」として共感できる人とはシンクロすることができても、
なかなか同じ人で「一人の妻の夫」としての僕を理解する人はいません。
(またそれを求めることも間違っています。例えば性別とか世代とか越え難い壁は確かに存在するのです)

でもまれに、本当にまれに、
すごく聡明な人の中に、多くの価値観に耳を傾け、それを理解して見せる人がいるのです。
僕なんか自分で言うのもなんですが、とても異端な人間だと思っているので、僕のわかりづらい話(自分でもよくわかってない話)を理解して、的確な感想をくれた人があれば、
なんと聡明な人なんだろうと思ってしまうのです。
僕の同僚(花咲か爺)はまさにそういう人なのです。

そういう人と接するにつけ僕は人の話が聞けない人間だなあと思います。
例えば僕とはだいぶ違う価値観、僕の持ってない立場を大事にする人の話は、
僕には非常にわかりづらいものです。
わからないからと言って話をしなければそれでいいのか?
といったらそんなわけはありません。
そう思っていたらどこかの国の大統領のようになってしまいます。

何より僕は表現をする人間です。
なるべく多くの人と話をし、その人の心を理解することで、
それを吸収して自分の表現に還元しなければいけません。

心を開いて、誰かの話を吸収できたと思えた夜はいい言葉が出てくるものです。
心を開いて、誰かの心にちょっとでも触れることができたと思えた日は、(自分的に)いい写真が撮れるものです。


心を開いて、自分の立場や価値観のみにとらわれず、
時には真っ白になって人の話に耳を傾けたい。
その波紋が自分という岩に触れたら、その岩がまた別の美しい波紋を描きだすはずだから。

そのことを太子は…、僕の知ってる多くの聞き上手の人は、知っているのではないかなあと思います。


憧れます。





今日はこの二文字だけ。
【聖】
もとの字は、「耳」と、「口(サイ)」と、「爪先立ちした人の形(王の部分)」
を組み合わせた文字で、
「口(サイ)」という器を使って神さまに祈りの言葉を捧げ、
爪先立って神に祈り、その声を聴くことの出来た者を表す文字なのだそうです。
聖徳太子の【聖】の字です。

【聡】
はその神さまの言葉を聡(さと)く理解することをいったのだそうです。
古事記に書かれた聖徳太子の別名、豊聡耳命(とよさとみみのみこと)の【聡】です。


ここにコメント頂いているみなさんのブログや日記、毎日拝見させていただいています。
まだまだ聴けていない部分も多いと思いますし、
そのせいで勘違いして変なこと書くことも多いと思います。
たぶん僕の聴きたい気持ちが空回りしてるんだと思います。そのときは平にご容赦ください。
なるべく心を白くして聴いていますので、どうぞこれからもよろしくお願いします。
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by chii-take | 2007-05-13 07:36
僕と青の物語
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最近、ヨメのシャツを拝借してよく着ています。
というか、もう自分のものにしてしまいました。
もちろん見た目が僕でも着れそうなデザインのシャツですよ。(女装じゃない)ヾ(^o^; )

別にお金がないわけじゃないんですが。
優しい色柄と布の感触が気に入ったからお下がりをもらったんです。
男もののパリッとしたシャツより着心地がよいです。

それで今他にもそういう優しい感じのシャツを探していて、
男ものであってもなるべく柔らかいデザインの、“藍染め”のシャツが欲しいのです。
もちろんサイズさえ合えばレディースでもよいのですが。
とにかく染色の模様や染めムラの活きた真っ青の、それでいて暖かいデザインのシャツが欲しい。



つい先日から、
今まで我慢してきたことに対する心の箍(たが)が、
ガタガタと音を立てて崩れてきていて、
自分の欲しいものにどんどん素直になってきてるようです。



子供の頃から無性に青が好きでした。
クレヨンであろうが絵の具であろうが、
画材の中で一番最初になくなるのはいつだって青でした。

買い足すごとに別の青も買ってしまうから絵の具箱は青だらけ。
コバルトブルー、ビリジャンブルー、ウルトラマリン、群青色、スカイブルー…。
空はもちろん、木の葉の色、川の色、建物の色、ほっとくと画面を真っ青にしてしまうのが僕の絵のおかしなクセでした。

さすがに美術を勉強しはじめた頃から問題があると意識しはじめていて、デザインをやると決めてからはあえて青を封印しようとしたこともあります。こんな偏ったことじゃいかんと思ったわけですが、そうやってグラフィックデザインをやってきて、最近気付いたことがあります。


それは、
僕から青をとったら他の何色も残らなかった。
ということなのです。

色に対する感覚がただの記号のようになってしまっていて、
この色に対してはこの色。こういう雰囲気にはこの色みたいに、
方程式のようなものが出来上がっていて、
色に対する瑞々しい感覚がなくなっていました。

それはたぶん必要以上に自分の感覚というものを信用しないようにしていたせいなんです。


どうして子供の頃そこまで青に固執したのか自分ではよくわかりません。
ただひたすらシャガールのような透明な青を表現することを望んでいました。


白川先生の文字学を勉強するようになって、色の成り立ちを調べ、
古代の人々がそれぞれの色から何を連想し何を求めていたのかを垣間みて、
僕は自分の青のことを考えました。





【青】
元々は「生」と「丹」を組み合わせて作られた文字で、
「生」は草木の生え出る形でそれらの色は度々青色に例えられます。
「丹」は絵の具の材料となった硫黄を含む鉱物のことで、それを採取する井戸の形が象られた文字です。
青の原料は青丹であり、朱の原料は朱丹といい、どちらの色も器の聖化に用いられたと白川先生はいいます。


【清】
青色の色調が穏やかで静かなものを感じさせるので、中国最古の漢字字典「説文解字」には、
「澄みたる水の貌(かたち)なり」とあり、「水がすむ、すきとおる」の意味を人に移して、
「きよい、きよらか」の意味に用いたのだといいます。


【静】
「青」と「争」からつくられた文字。この文字における「争」の形は農機具のことを表しており、
それを青色の顔料で清めることを【静】といったそうです。
農機具を清めることで穀物への虫の害を防ぎ、穀物の豊作をえることが出来ると考えられたそうで、
耕作のやすらかなこと、やすらかな実りを願うことから「やすらか、しずか」という意味に用いると白川先生はいいます。
(ちなみに先生のお名前は静、なんだか解説が他の字より細かいのは気のせい?)

お気づきかと思いますが、青にまつわる文字は水に関する文字が非常に多いのです。
元々水には身体や心を清める力があると信じられてきました。
禊ぎという言葉の存在を思えば納得できるはずです。
それを分りやすく見えるように象徴した色が青だったというわけです。


【監】
この文字は「臥」と「皿」を組み合わせた文字で、
「臥」は人がうつむいて下方を見る形。「皿」は盤で、水をいれた水盤を表しています。
水盤に自分の姿を映して自らを反省する姿が描かれており、
その行為から「鑑(かんが)みる」という意味にも使うといいます。
またこの文字にさらに「見」を組み合わせて『覧』がつくられたといいます。


【藍】
白川先生の記述には
「監」と「艸(くさ)」からつくられた文字で、藍染めの原料となる植物をさす。
とあります。

藍染めの染物には「静」のときに記したことと同様「防虫防獣の効果」や「殺菌」の効果があり、
やはり「青」の語源に通ずるものがあることがわかります。
藍染めにはやすらかなものへの祈りが込められていると思えてなりません。

ちなみに、職人が水甕の中で染料を醗酵させるおりに、水面に浮かびあがった水泡をみて、
その水甕の染料の醗酵具合をはかるときの所作が「監」の形に例えられたのではないかと僕は想像しています。
その目安、目印となる水泡のことを「藍の華」というのだそうです。




僕の悪いクセは考え過ぎることだとよく言われます。

最近このブログを読んだ人の感想を聞いたのですが、
「ちいたけさんは分析大魔王ですね」と言われて、さすがに笑いました。

言葉数を多くすれば大事なことに近づけるなんて思ってもいないのですが、
やっぱり自分が感じて考えたことを話すなら、できるだけ丁寧な方がよい。
できるだけ客観的なものがよいと思っていました。

そうやって端から端まで理由づけて言葉で説明するから、
自分が直感的に感じたものから、知らず知らず遠ざかっていることに最近ようやく気付きました。

“鑑みる”という言葉。
水面に映る兆しを眺めて感じ知ることから生じた文字なのでしょう。

【青】に関しても、もうここまで知れば、
“考える”必要なんかないのだと今は思うのです。

石を投げ入れれば波紋の起つように、
その行方をただ静かに眺めているのもいいと思います。
そして逆に遠い所からたなびいてきた別の人の波紋にもただ耳を傾けてみたいのです。
その水泡の起つのを鑑みて、もう一度自分の「青」を探してみたいと思いました。
そうすれば見つかると思いました。

見つかれば、またその「青」を纏い、邪(よこしま)なものを遠ざけて、
少しでもより健やかでありたいと。
今はそう願うばかりです。


幼い頃、僕の絵の変な色使いを、母は一切正そうとしませんでした。
級友たちが気味悪がる中、その色使いを正そうとした小学校の先生と母は喧嘩さえしたそうです。

かつて僕の青を守ってくれた母と、
この歳になってあの頃の青を思い出すきっかけをくれた二人の女性に心より感謝します。
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by chii-take | 2007-05-10 02:26