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夜の駅
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夜の駅が好きです。
子供の頃から好きでした。
(車のない家庭で育ったもので…)

夜の駅はなぜだか親父っぽい存在です。
『ださい』という意味ではなくて、
なんだか頼もしいのです。
煌々と灯った明かりを遠くに眺めていると、なんだか安心します。

どこへでも行けるし、どこからでも帰ってこれるよ。
そう言ってくれているようです。


昔のことですが、
仕事から帰ってくる親父は、飲みにさえ行かなければ、毎晩決まった時間に夜の改札口から出てきました。(この駅じゃないんですけどね…)
もちろん迎えに行くこともときどきありました。
何かのCMの1シーンのように、2本の傘を持って…。
そういう待ち時間の間、遠くから夜のプラットフォームを眺めているのが好きだったんです。

今は仕事が終わって、僕がようやく自宅に帰りつける場所がここ。
夜の奈良駅です。

この駅では夜中灯りが落ちることがありません。
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by chii-take | 2007-06-27 02:11
10年越しの告白
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河瀬直美監督の作品を初めて見たのは今から10年ほど前、僕がまだ大学生の頃でした。
彼女の長編デビュー作である「萠の朱雀」は奈良県の吉野を舞台にした映画です。

当時、カンヌで新人賞にあたるカメラドールを受賞したというニュースがなければ
おそらく知ることもなかった映画監督ですが、実際に映画を観たとき、
キャラクターの微妙な心の動きを吉野の自然の美しさに投影する手法に圧倒されました。
まさか吉野なんて地味な土地で映画が撮れるなんてそれだけで驚きでもありましたし…。


本当のところ当時からかなり好きな映画監督だったのですが、
まだまだ壮大な夢を語りがちな十代の大学生が、
奈良という片田舎を舞台に活躍する映画監督に憧れるなど、
あまりに地味過ぎて口にするのがなんとなく憚られました。
だからこの歳までずっと隠れファンでいたのです。

ですが昨年夏、奈良引越しを思いはじめた頃から再び河瀬監督への興味が深まっていき、
部屋探しで毎週奈良に通っていた時期には、
ならまちを舞台にした映画「沙羅双樹」を数分づつでも毎日のように観てました。


つまり最近はかなり熱烈にファンだったわけで…、
そういうわけで今頃話題にするのもタイミング外れ甚だしいのですが、
最新作「殯の森」には製作中のニュースが聞こえてきた頃からかなり期待していました。

カンヌ招待が報じられたときに、なにがしかの賞をとることは僕の中では既定の事実でした。

そりゃあ、そうです。
彼女のやってきたこと。
彼女の考え。
彼女の手法は今の僕にとってはお手本のように輝いて見えます。

僕からしてみればどうして今までもっと注目されてこなかったのか不思議なくらいです。
僕自身声を大にして彼女を評価してこなかったのですから、僕が言えたことではありませんが…。
だからこそ思います。
ようやく僕自身の考え方や、時代が彼女に追いついてきたのかな…。
そして今あの人はどこを向いているのだろう?
それが無性に気になります。


下はカンヌのグランプリ受賞後の彼女のスピーチ。
eiga.comの記事を拝借しました。(http://eiga.com/buzz/070529/02.shtml)

「映画作りは大変で、人生にも似て困難、混乱がある。お金とか服とか車とか、形あるものによりどころを求めようとするが満たされるのは一部。そんな時、誰かの思い、光、風、亡くなった人の面影……目に見えないものに心の支えを見つけ、たった1人で生きていられる生き物なんだと思う。そういう映画を評価してくれてありがとう。この世界は素晴らしい」

「自分にしか作ることができない地に足がついた映画を撮っていきたい」



僕が何を思い奈良に住もうと思ったのか、
これからどのようなものをつくっていきたいのか、
すべてこの言葉のうちに含まれているような気がします。

先日のNHKの放送を録画していたので、早速「殯の森」を観ました。
まだ観ていない人も多いと思いますので、詳しい内容は書きませんが、とてもよい映画です。
奈良の原生林で主人公の女性が心の底からの思いを、願いを叫ぶシーンがあります。
とても心打たれるシーンでした。
得るものの多い、心に残る映画です。
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by chii-take | 2007-06-25 22:38
目に見えないものや、言葉にできないもの。
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僕の通う会社(印刷の会社です)では所属する部の中でも、いくつかのセクションに別れていて、
それぞれのセクションで、どのような仕事をこなしているのかはなかなか伝わってこないような仕組みになっています。(当然といえば当然ですが…)

週末帰宅しようとしたとき、部で一番最後だったので一通り部の全体を見てまわってつけっぱなしのPCがないか確認していたとき、
ある年配のコピーライターの机の上に最新号(7/5号)のサライが置いてあるのを見つけました。

表紙には大きく「禅」の文字。

前々からちょくちょくいろんな人や場所で「禅」に関する言葉を聞くことがあったので、その特集記事に興味が沸いてきたのと、その年配のコピーライターの方に興味があったのとで、すぐにこの雑誌を買うことに決めました。

なぜこのコピーライターの方に興味があったのかというと、
たまたま部で飲み会があったときに、帰りの電車が一緒になったことがあって、
そのときに突然、
「君は僕たちと一緒に仕事するべき人やと思うよ…」
と言われたのです。
僕の普段の仕事内容なんて知らない筈なのにです。
何がなんだかよく判らなくて、嬉しいとか思う以前に、
なぜそんなことが言えるのか不思議で仕方なくて答えに窮してしまいました。
(もちろんその人はこのブログも知らない筈…)

それからというもの、セクションは遠く離れているけど、遠くからその人の仕事ぶりを見ていたら、
どうも一般企業の販促に関わるものではなく、どちらかと言うと文化的な読物を中心とした印刷物のライティングやコーディネイトを担当されている方のようで、
おそらく毎朝担当を決めて話をしている部の朝礼の、僕の当番のときの話の内容から察して、
そのようなことを仰られたのだなと見当をつけました。

たぶん僕が思うに、どこかに同類の匂いを嗅ぎ付けられたのかな…と。
それは実は僕も遠くからその人を眺めるにつけ感じるようになっていたことなのです。
だからその人が今読んでいる雑誌に「禅」という文字を見つけて、ビビビッときてしまったのです。

土曜日、さっそく雑誌を購入してその特集記事を読みました。
興味はあったけど、「禅」なんてまったく知らない世界なので、
まあ、入門としては雑誌の特集くらいがちょうどいいかと思い、
リラックスしてページを開くと、やはりそこにはビビビビッと来る言葉が溢れていて、思わず鳥肌がたってしまいました。
思い描いたのは、この言葉に共感してくれそうな様々な人の顔。
上に書いたコピーライターの方の顔をはじめ、
僕に「禅」というものの考え方を最初に話してくれた人。
他にも僕の考え方にときどき頷いてくれる人たち。様々な人の顔です。

雑誌は足立大進という偉いお坊さんのインタビューから始まっていました。
下はその方が仰られていたことの一部です。

「マザー・テレサは “一番の不幸は、誰の役にも立たないことだ” と言われた。
消費や享楽に興じるだけでなく、命ある限り何かを生み育て、できる範囲で人のためになる。そうすれば、世の中はもう少し良くなる」

「揮毫(きごう)を頼まれるといつもこう書くのです。
 花も美しい 月も美しい
 それに気づく心が美しい
幸せを受け取るには、その器が必要なんです。私はよく“心のアンテナ”と言っている。この空中にはたくさんの電波が飛んでいるけれども、受信機がなければ画面に映らない。人の心も同じことです」


なんと言っていいか、大事なことはいつも言葉になりません。
僕はこの雑誌にこの言葉があることがとてもうれしかった。
思い浮かべた様々な人の顔と、僕のこれまで考えてきたこと。
かするようなわずかな共通点でしかないけれど、
勘違いかもしれないかすかな共通点でしかないけれど、
どこかで繋がっているものの考え方。
その一端に僕がいるのだと思うと無性に嬉しいのです。
たぶん僕がそのコピーライターと仕事を伴にすることはないのだろうけれど、
それを伝えてくれたその人の言葉に心から感謝します。


d0105218_21261085.jpg写真は時計草の蜜を吸いに来たミツバチ。
ヨメが「近くの通りにおもしろい形の花が咲いてるで」と教えてくれたのでカメラを抱えて行ってみれば、いそいそと脇目もふらず働くミツバチの姿が数匹…(土曜日なのに)。
とても働きもののミツバチです。
背中にたくさんの花粉をつけて…。
植物に利用されていることを知ってか知らずか…?
いや、知らないわけはない。
蜜を持ち帰るという行為で自分が間違いなくこの世界と繋がっているということを、
このミツバチは確かに知っている。

僕もこう在りたいのです。
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by chii-take | 2007-06-24 21:36
行きたい方へ まっすぐ まっすぐ
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目的を定めたら、脇目もふらず、自分の行きたい方向へまっすぐ まっすぐ。
そこに花壇があろうが、岩があろうが、とにかくまっすぐ、歩みを止めない。


会社の近くの公園で薄汚いノラ猫としてでも、
凛として今日を生きる姿に、僕が思わず一目惚れした猫くんです。

とにかくこの猫くんが、何かに迷ったり、おどおどしたり、慌てて逃げ出したり、
そんな姿を見たことがない。
凛々しいという言葉はこの猫くんにこそふさわしい。

まっすぐであることは強いこと。だと思います。
どうせ行くなら、まっすぐ行きたい


【直】
白川先生によれば、「省」と「L(イン)」とを組み合わせた形で、
「省」は目の力を強めるためのまじないで眉を飾り付け、
それによって不正を発見し取り締まることをいうのだそうです。
「L(イン)」は塀などを立てている形で、隠れるの意味があるので、
【直】はひそかに調べて不正を正すという意味であり、そこから「ただす、ただしい」の意味となるのだと先生はいいます。
ただすので「なおい、まっすぐ、すなお」の意味となるのだと…。


d0105218_312763.jpg上の写真は2度目の掲載です。この猫くんと始めて遭遇したときのものです。
広めの花壇の対角線上を、通路まったく無視で横切ってました。まっすぐ一直線に。

下の写真は連日ストーカーのように追っかけ回してようやく収めた一枚です。
やっぱりおニューのレンズで撮れるほどは近づけなくて、
前使ってたズームレンズで距離を置いて撮ったもの。


いつかこの猫くんのように歩きたいのです。
まっすぐに、凛々しく。

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by chii-take | 2007-06-23 03:31
もっと、近くに…
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ファインダーを覗いても、レンズなんてはまっていないかのような、
いつもと同じ大きさの風景が小さな穴の向こうにありました。


35mmフィルム換算で約78mm相当の画角が得られるレンズ。
50mm F2.8 MACROの視界です。
新しく購入した僕のニューレンズです。


大きく写そうと思えば近寄らねばならず。小さく写そうと思えば離れなければならない。
至極当然のことですが、長くズームレンズを使っていると、
そんな単焦点レンズの当たり前のルールにさえ戸惑ってしまいます。
でも、このレンズを使ってみてはじめて
撮りたいものに実際に近づいていく緊張を知ったり、
どうあがいたって微塵も空には近づけない事実に気付いたり、
ズームレンズのまやかしのような画作りに誤魔化されていた自分に気づき、
改めて写真を撮ることの素朴な魅力を感じています。

ああ、これか!。こんななんや。

と真剣にカメラを持ち歩き始めた当初の新鮮な気持ちが返ってきます。

そしてなんたってこれはマクロレンズ!
一度近づくと決めたらどこまでもグイグイと近づいて、ある種の小宇宙をCCDに落とし込むことができます。解像力が自慢です。


d0105218_1572889.jpg本当にたくさんの人にレンズ選びのアドバイスをもらいました。
いろいろ教えてもらって勉強になったのですが、
でも結局誰のおススメにも従うこともなく、自分の判断でこのレンズの購入を決めました。
動機の3分の一は憧れ、もう3分の一は挑戦、最後の3分の一は直感。
無謀な僕のわがままを見過ごしてくれたヨメに心から感謝です。

これからしばらくはαとこいつの組み合わせが僕の相棒になりそうです。
そしてこの次はαのポテンシャルを最大限に引き出すドイツのあのメーカーのレンズを…。
さてさて何年かかるか…(汗)

そろそろ一年近く経とうとしているけれど、
まだまだ写真を撮ることに飽きることがありません。
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追記 紫陽花の美しい季節になりました。天候の変化によって気温の上下が烈しいこの頃。みなさま、風邪などお召しにならないようお気をつけ下さい。
先週末のちいたけ家は夫婦揃って仲良くお熱しておりましたとさ。
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by chii-take | 2007-06-20 02:15
三つの言葉
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『志あるを要す』
『恒あるを要す』
『識あるを要す』




もう一週間も前の話ですが、
よくコメントを頂いているsouu様の参加されていた書の展覧会に行ってきました。
そこで出会ったのがこの言葉。
souu様がご自身の作品に取り上げておられた白川先生の座右の銘で、中国の曽国藩という人の家訓の中の一説です。


僕は不思議でした。
何が不思議かというと、僕が日々気にしているある一文字がそこにはなかったから…。


souu様に頂いたたくさんの白川先生にまつわる資料の中に、あるインタビュアーに語った先生の言葉がこう記されていました。

「学問とは自己から噴き出す要求があって初めて物事はできる」


前から思っていたことなのですが、
「学ぶ」ことと「つくる」ことは非常に似ていると感じています。
先生の言葉は僕のそんな思いに見事にシンクロするものでした。

似ているというのは「とりいれる」ことと「はきだす」こと、
そのサイクルでの関係性が非常に近いところにあるということなのです。

良いものをとりいれて、良いものをはきだす。
良いものをつくろうと思ったら、日々良い知識を吸収していないと駄目だし、
「つくる」ことそれ自体が「学び」であるとも感じている今日この頃なんです。


僕が日々気にしている一文字というのは【才】です。

【才】
白川先生によると、
標木(目印の木)の枝に「サイ」という神さまへの祈りを入れた器をくくりつけ、
その土地が神聖な土地であることを示した儀式を象っているのだそうです。
元々は「聖なる場所としてある」という意味を持った文字。
後の時代に「はじめから存在するもののうちにある働き」の意味として、
才知や才能の意味に用いられたのだそうです。


僕は正直自分で才能の乏しい人間だと思っています。
センスねえなあ、と。
同世代の人の仕事を前にすると、どうしようもなく萎縮する自分がいます。
それは学生時代からずっと。今も変わらず…。
それでもつくっていく衝動から抗えない自分はなんと愚かで馬鹿げている存在なんだろうと…。
才能もないのに諦めがつかない往生際の悪い自分。
そんな自分を意識すると、本当に叫びだしたくなります。

でも白川先生は、
「才あるを要す」
とは一言も言わない。

どうしてなんでしょう?


先生の仰られたれた「志」と「恒」と「識」とは…、
「志あるを要す」
自分がどこへ向おうとしているのか、その目的をしっかりと持つことが必要。

「恒あるを要す」
一度やったことで事が済んだと思うのではなく、
繰り返しやることでその意義を意識に刻み込んでいくことが必要。

「識あるを要す」
自分の持っている過去の体系の中に、それがどのように組み込まれるのかを知ることが必要。
それが自分にとってどのような意味を持つことなのか…。
作業としてどのような意味を持つものであるのか…。
知識は断片的では役に立たないから、全体の中の部分に組み込むことで、折にふれて機能するようになる。

先生の言葉はひとつひとつが実感として観じられるものばかりで、至らない自分ですが、
この言葉を忠実に実行したいと思う毎日です。


もし、もし先生が生きておられたら質問してみたいことがあります。
【才】とはなんですか?
どういうものですか?…と。

「志」と「恒」と「識」が在れば必要ないものなんですか?
それとも、
「志」と「恒」と「識」が在れば自然と育まれるものなんですか?

そんなことを考えていると、白川文字学の体系の中では、
「在」という文字の中に【才】という文字が含まれていることを不意に思いだします。
「志」と「恒」と「識」を持てるかどうか、それが在るかどうかもまた才能次第か。
だとしたら…。

やっぱり叫びだしたくなります(笑)



souu様から教えていただいた白川先生の最後の講演の様子。
常に立ったままで2時間の講演をこなしておられた先生が、
その日始めて座ってお話をされたということ…。

その様子を聴いて、その日のお写真を見せていただいて、
僕は「志」と「恒」と「識」のことを思いました。
「志」と「恒」と「識」と共に在ること。
それが先生が持っておられた偉大な才能の本質であると。

僕は論語の中の一説で、師である孔子に対して弟子である顔回が言った言葉を、
この日souu様の作品と白川先生のお話にふれて、僕が心に刻んだ思いとして、
ここに記しておこうと思います。

「回、不敏なりといえども請う、斯の語を事とせん」
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by chii-take | 2007-06-11 02:03
葡萄と眼差し
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いや、いきなり汚いものを見せてしまってすいません。
僕の足です。
あんまり気持ちがよかったものでつい…。
伝わるかな…伝わればいいなと、危険を承知でこの写真をチョイスしてしまいました。



今日は勤め先の部長の別荘宅に、部の若手中心のメンバーで招いていただき、大勢で楽しいひとときを過ごしました。
部長の別荘は丹波篠山ののどかな田園地帯のまっただ中にあって、とても交通の弁の悪いところなんですが、
その分都会の喧騒からは完全に隔離された、ある意味非日常的な空間の中にありました。
毎日近代的なビルの中で当たり前に顔を合わせている仕事仲間とそんな空間に集うことは、
まるで深い眠りのただ中にみる夢の中のような世界で、
それがすばらしい時間であったればこそ、これが夢ならずっと醒めなければいいのに…と思える素敵な時間でした。


僕は人と話すのがとても苦手で、おもしろい話題を提供したり、話を盛り上げたりすることがなかなか出来ない人間なんですが、集まったメンバーがデザイナーやコピーライター、カメラマン、とクリエイターばかりなので、話題に上ることすべてに思うところがあって、今日は一日中、それこそ行き帰りの電車の中でさえずっと話しっぱなしの一日でした。

田舎の緑に囲まれて建つ築100年の旧家に、ベテランから若手までが一つの屋根の下に集い、現代のクリエイティブについて話す話す話す。
それはまるでチームの強化合宿のようで、企画した部長の真意はわからないけど(もしかしたら単なる別荘自慢の可能性もあるけど)、得るものの本当に多い時間でした。
ベテランの人数が少なかったせいで、そのメンバーの中では僕は中堅どころといった立ち居値だったんですが、学んだのは年配の方からのみならず、今年入った新人さんとの会話の中からもたくさんのヒントをもらいました。
僕は今もその心の中に取り込んだものを整理しきれずに、こうやって少し興奮気味に文章にしながら記憶を反芻しています。

クリエイターにとっては、ときに100の仕事をこなした後よりも、わずか数分の間の1つの会話の中に大きな成長を見いだすことがあります。
そしてそれは人の心を開かせる空間の中でなら、直接ズキズキと心に響いてくるものだから、
その刺激は何倍にも倍増するというものです。それはもう痛いくらいです。

そうそう、エネルギー溢れる後輩たちと目を合わせて話をすると本当にその視線が痛いのです。
僕は彼らの旺盛な好奇心に見合うほどの話ができたのか分りませんが、僕を一心不乱に話させたのはやはり彼らの視線でした。

以前焚火の炎を見ていると自然と心の壁を取り払った話ができると書きましたが、それは萌えるような緑のただ中にあっても同じなのか、多くの仲間と共に近くの小川に散策に出たときには、もうつまらない心の壁や距離はなくなっていて、最初に川に入った新人さんにつれられるように、30も近いおっさんが子供のようにはしゃいで裸足で川の中に入っていました。

冷たい水が足元を過ぎていく感覚は立っているというより、何かに触れているようで、ああ、こんなところにも神さまがいるのだと、僕は足の裏で感じていました。





【里】
白川先生によれば、この文字は田と土とを組み合わせた文字で、土は「社」の元になった字であるから、田の神さまを祭る「社」のあるところを【里】といい、その「社」を中心に人々が住むようになったので「さと、むらざと、むら」の意味に用いるのだといいます。





日が暮れはじめ、お開きにするために小川から別荘に戻ったとき、部長は僕たちに菜園を紹介して、最後にその脇にあるビニールハウスの扉を開け、ニコニコしながら
「ここは葡萄を植えてんねん」と言い、
「まだ食べれるような実はないねんけどな、ほら、ここに小さいけど実が出来かかってんねん!」
とうれしそうに指さすのです。
自分の半分ほどの年齢でしかない若いスタッフを集め、この日部長が最後に話してくれたことがそれでした。

会社での部長は、
「全然仕事とは関係あらへん話やけどな…」
といって、いつでも様々なクリエイトのヒントを独特な語り口調の雑談に織り交ぜてくれるやさしいセンスを持った人です。


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後から聞いたって、ちょっとニコニコしながら、
「何も意味なんてあらへんよ」としか言わないのでしょうけど、
この日最後に、これから果実を成そうとしている葡萄の小さな実を見せてくれたことに、
密かな部長の思いを見たようでなりません。

もちろん、
ただビニールハウスの自慢がしたかったに過ぎないという可能性も充分あるんですが…。
真意はわかりません。


その他の篠山での風景は、こちらに。
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by chii-take | 2007-06-03 03:47
癖になってしまったこと
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最近は、空を見上げながら歩くことが、どーしてもやめられない。
結構危ない。いつか誰かとぶつかりそう…。


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最近は、足元を動くものと、足元の鮮やかなものから、どーしても目が離せない。
結構危ない。いつか転ぶことは間違いない…。


でも、どーしてもやめられない。
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by chii-take | 2007-06-01 00:55