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あいつの居なくなったあとに…
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先週、半年ほど前からずっと痛んでいた親知らずをついに抜きました。

抜いた後も、ぽっかり穴の開いた歯茎があんまり痛いものだから、
このところ思うように喋れません。
喋れないとコミュニケーションがうまくいかないから、なかなか仕事がはかどらない。
指示が行き届かないものだから、訂正が山のように増える。
もともと忙しいのに、それでさらに忙しくなる。
へとへとになって帰っても、口を動かすだけで痛いからモノを食べてもおいしくない。
いや、おいしいのはおいしいけど、心地よさがまったくなくて、逆にモノを食べることが苦痛でしかない。

おかげで有り得ないことにまた体重と体脂肪率が減りました。
なんと6%です。
運動なんて何もしていない今年30になるオッサンがです。6%。
有り得ません。

食物を取り入れる場所であり、言葉を発する場所である口を奪われるというのはつらいものです。
先週はいろんな意味で物事のうまくいかない一週間でした。

すべての原因が親知らずにあるのかどうかわからないけれど、空回りの一週間。
いろいろなものを親知らずと一緒に見失いました。
ああ、逆風が吹いているな、これは届かないな、それに気づいたのが週の半ば。
週末に至って周辺の空気が変わっていることにようやく気づいて、
もう一度手探りで目標を見定めるべく目を凝らしはじめる始末。
疑いはないのに、見失うと不安だけが残る。

さてさて今週はどうなることやら。逆風にも負けない強さが欲しいものです。
いや、求めるのではなく、つくっていくことを考えよう。強さを。追い風を。
やっぱり今のテーマは表現の自立。

今日、いや昨日か、ヨメといっしょに参院の総選挙に行ってきました。
写真は選挙会場の幼稚園で撮ったフウセンカズラです。

花言葉は「期待」
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by chii-take | 2007-07-30 02:04
愛されるよりは 愛することを…
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いいかげん引用ばかりしていないで、そろそろ自分の言葉で日記をかかなければいけないなぁ。
と思っている今日この頃ではあります。
“表現の自立”。それが今の僕の密かな目標です。

しかし、たまたま本屋さんで目に入った一冊の本を僕は購入せずにはいられませんでした。

「マザー・テレサ あふれる愛(沖守弘 講談社)」

以前からよく耳にしていたマザー・テレサの言葉。
先日の日記にも記した禅を特集した雑誌にも彼女の言葉がありました。
僕はどうしてもこの本を購入して彼女の言葉に耳を傾けずにはいられませんでした。
結局、訊くことや、聞くこと、そして学ぶことは、どうしても辞められないのです。


心打たれた言葉、エピソードはやはりここには書ききれないほどたくさんあります。
今このタイミングでひとつ選ぶとしたら、
やはりずっと悩んでいる仕事のことについてあらためて考えさせられた言葉を選ぶよりありません。

マザーは、この本の筆者であり、報道カメラマンの沖さんにこう語りかけます。
「私は、技術的なことはわからないけど、
 いい写真がとれるかどうかは機械じゃないって気がするのよ。
 自分の仕事を誇ったり自慢する心があったらダメね。
 仕事は神がさせてくれるのだから」


大好きな白川先生が使う「神」と、ここでマザーが使う「神」は全然違うものの筈です。
でもなぜか僕には、マザーのこの言葉の中では同じもののように感じられました。


僕はどこかで自己顕示欲にかられて仕事をしてはいないだろうか?
日々のデザインにおいて、どこかで“奇をてらう”ということをしてはいないだろうか?
結果のみを重視し、その義務や役割をおざなりにしてはいないだろうか?
先方の注文を隠れ蓑に、みすみす不誠実を見逃してはいないだろうか?

「たいせつなのはどれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」

マザーの言葉はいちいち心に突き刺さります。


下はマザーの修道会の祈りの言葉の抜粋。

『慰められるよりは慰めることを
 理解されるよりは理解することを
 愛されるよりは愛することを
 私が求めますように
 わたしたちは与えるから受け
 ゆるすからゆるされ
 自分を捨てて死に
 永遠の命をいただくのですから』



…自分を捨てて死に、永遠の命をいただく…

どのような仕事であれ、作品であれ、
何かを残すというのはそういうことではないか、と思うのです。

僕の傍らの書架には、文学作品であれ、西洋絵画の画集であれ、ジャズの音源であれ、
そして文字のルーツをたどる大辞典であれ、
そのようにして永遠の命をいただいたすばらしい仕事であふれています。

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを


僕がそれを実践できることを願って止みません。

d0105218_4363112.jpg写真は職場の近くの公園に咲いていた「アガパンサス」。
よく花の写真を撮っているくせに、花の名前をまったく知らない不誠実に気づきました。これはいかんと、さっそく花図鑑を買ってきたのでようやく判ったのがこの花の名前。
上の写真はもう何週間も前に、そのたたずまいに衝撃を覚えて思わずCCDに収めた一枚。
密集して咲いているのも美しいけど、
たとえ一本でも美しく凛として咲くこの一輪の花に強く憧れました。
自分もこうありたいと思ったのです。
花言葉は「愛しい人」なのだそうです。
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by chii-take | 2007-07-23 04:41
柔らかい土
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今“柔らかい土”のような人と一緒に仕事をしています。


会社における僕のデザインは、固い岩盤を砕くように掘り進んで、ようやく探し当てた、わずかな泥のような地下水(しょぼいアイデア)を、幾重にも蒸留して、なんとか飲めるような状態になるまで工夫を重ねることに似ています。

でもその人のは違う。軽く浅くその柔らかい土を掘り返せば、すぐにも豊かな水流に達する。
しかもその水は限りなく透明で、うまい。


その人は自分のことを、土のようだと形容されると、たぶん公然と不満を垂れるだろう…。
「どうせなら宝石のようだと言って下さい」(-"- )
とかなんとか、きっとそう言うに違いない。

けれども僕は思う。
やっぱり“柔らかい土”のようだと。

まだ社会人3ヶ月と半月。そろそろ種をまいてもいい頃合い?
しばらくしたら、きっとよい花が咲くだろう。
僕はその花を見れるのだろうか…。

僕の、みんなの、期待の後輩。
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by chii-take | 2007-07-21 04:38
目にはみえないそれぞれの花。
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10代の多くの時間を僕は小説に没頭して過ごしました。
絵を描いているか、ご飯を食べているか、寝ているか、それ以外の時間は大概文庫本に視線を落としている少年でした。
物語が好きだったんです。

奈良に引越して通勤時間が増えたことで、また本を読む時間が飛躍的に増えました。
しばらくは新々の作家さんの本を読んでいたんですが、どうも馴染めない本が多く、
ひさしぶりに10代の頃に読んでいた本を手にとりました。

宮本輝
『葡萄と郷愁』


僕は10代の頃、本当に宮本さんの作品が大好きで、当時刊行されていた本はすべて読破するほどのファンでした。
『葡萄と郷愁』もその当時読んだ本の一冊。
東京とブダペストに住む、それぞれ何の関係もない二人の女性の人生の転機を、各章毎に舞台を移し、交互に描いた長編小説です。

読み進めていくと、ああ、この言葉は大事な言葉だなあと思える言葉で溢れていて、
僕は読み終わったらブログに書こうと、ひとつひとつに付箋をつけて読んでいたんですが、
読み終わってみるともう付箋だらけで、とてもここに引用しきれる文量ではなくなってしまいました。

それで気がついたんですが、
どうやら僕という人間の価値観を作り出していたものが、
そもそもこれらの宮本さんの作品群であったようなのです。
少し偏屈なところや、なんでも観念で決めつけるところなどそっくりで、そりゃ共感できる言葉で溢れていて当たり前だなとしみじみ思いました。

読みながら色々なことを考えました。
読んだ当時15かそこらの僕には作品に登場するほとんどの人物が年上なわけで、
経験のない社会での出来事を僕は知ったかぶって、分った気になって読んでいたこと。
実際に結婚して30近くなった今、作品に登場する同年代のキャラクターの心情を読むと、
当時分っていなかったことが、ありありと実感として理解でき、読んだ当時の自分の心のありようが滑稽にすら感じられました。

…ふむふむ、そうか! なんて馬鹿じゃねえか! と思ったわけです。
少年の僕には、登場人物がその生い立ちによって抱えた悲しみの半分も理解出来ていなかったし、
その物語の奇跡で語られた生きる歓びの半分も、僕は理解できていなかった。
そのことがこの歳にしてようやくわかったのです。
いや、たぶん今もまだ理解できていないことが多く残されているんだと、ようやく知ったのです。


でもそれと同時に15のときにこれを読んでよかったと思いました。
あのときこれを読んでいなければ、僕は今この小説に登場する人物のようなものの感じ方、考え方を永遠に知ることはなかったかも知れないと、そら恐ろしい気持ちにもなりました。
振り返ってみると、奈良引越しも、今僕が取り組もうとしていることも、すべて、この物語の中で語られた「僕が付箋を貼った大事な言葉たち」に起因していることなのです。

それを知って、僕はしばし呆然。少し気恥ずかしく。それでもそのことに喜び。そしてそれを僕に関わるみなさんに報告しなければと思いました。

下は本作の東京の物語の主人公、純子が、長くつき合った幼なじみの孝介に別れを告げるときの言葉です。

「どうして司法試験あきらめたの?高校時代からそのための猛勉強だったんでしょう?」
(中略)
「弟が死んだからさ。いまさら訊かなくたって知ってるだろう」
「私、夢を捨てる人、嫌いなの」


それを聞いた孝介はこう反論します。

「俺が夢を捨てなかったら、いなかのお袋や、弟や妹はどうなるんだい。夢を捨てなかったために、自分だけじゃなく。まわりの人間まで地獄に落としたってやつは、いっぱいいるんだぜ」
「でも、私、あきらめてほしくなかったの」
「まるでいいがかりだよ」


僕はこのくだりに代表されるような、宮本さんの物語に登場する女性キャラクターの頑是無い物言いが大好きでした。
ああ、人が人を好きになるというのは、理屈ではないのだと…、同じように心が離れるときも…。
だから自分は一度心に描いたものは決して変えないでいよう。それを家族や周りの人がどう思うかはわからないけれど、自分の内側の大事なものを失うと、同時に自分の外側の大事なものも失うに違いない。
それはなんとも意味のないことだから、僕は変えないでいよう。何ものにも損なわせない夢を持とう。
そう思ったのです。

僕の最初の夢は、「もの表現する人間になろう。それで誰かの役に立とう。それでご飯を食べよう」。
もちろん今も変わらずそう思っています。だからこれだけは絶対に誰にも奪わせない。
(そして今はその夢にもう少し具体的な方向性を与えました。そのために奈良に来たんです。でもそれはまた別の機会に…)

僕は宮本さんの物語からそのような価値観を植え付けられました。
おかげで随分周りにはわがままな人間だと思われているような気がします。ヨメにも苦労をかけて申し訳ないと思っています。なんだか本末転倒な気もしますが、それが結局僕たちの幸せに繋がるのだと。それが僕の信念なんです。
ただ思うことと、実際に行うことの違いはそれはもうすごいもので、僕は日々身体を裂かれそうな思いです。
そんなとき、純子の

「でも、私、あきらめてほしくなかったの」

この言葉が頭をよぎるようになりました。
思えば宮本さんの作品は幸せになろうと思う人への応援のメッセージが強く込められているような気がします。それもこの歳になって人生の岐路に立ってみて始めて聞こえてきた作者の声のような気がします。

付箋を貼った場所はあまりにも多過ぎてすべては紹介しきれません。

でもあと数カ所、書かせて下さい。


純子は上記のやりとりのあと、孝介に「夢って何だい?」と問われてこう答えます。

「私の?」
「いや、人間のさ」
「その人だけの花を咲かせるために走りつづけることだと思ってるの」





もう一カ所は、純子の物語と並列で描かれた、ハンガリーのブダペストに住む、アーギという女性が主人公の物語から。
この話の終盤、アーギの恋人ジョルトの元に念願の夢の仕事の話が届きます。
そのことを共に喜ぶ二人の会話です。

「けさ。家を出るとき、電話がかかったんだ」
「すごい! 編集の仕事、やりたかったんでしょう?」
「ハンガリーの文化の仕事さ。(中略)優雅と情熱。これが俺たちマジャール民族の文化だろう? だけど俺たちは、希望と忍耐に、自分たちの特質を利用しなかった。情熱を秘めた希望と優雅な忍耐…。これが、俺たちは使えない。使えなかったのさ。それどころか優雅と情熱が絶えずバラバラになってた」
ジョルトはやっと笑みを取り戻し、首を振りながら溜め息をつくと、
「うーん、自分でも何を言ってるのかわからなくなったよ」
と言った。
「正式に就職出来たらいいわね」
アーギは言った。ジョルトは肩をすくめた。
「優雅と情熱。この言葉をアーギに捧げるよ」



アーギと純子。僕はこの小説のけして交わることのない二人の女性の物語に多大な影響を受けていたことを知りました。
どこかで繋がっている二人の運命に、不思議と言い知れぬ感動を感じたことを覚えています。
今ならはっきりと生きるということはそういうものなんだとわかるのです。ようやくこの物語から聞こえてくる人生の歓びを受け取ることができたようで、ただひたすら今はそれが嬉しかったりもします。
歳をとるのも悪くないものです。(と言ってもまだ30前ですが…)



最後にこの小説中盤に登場する印象的なキャラクターが純子に言った台詞を引用します。


「目にみえないものが、いっぱいあるんだ。迷うな、迷うな。必然だよ」

「猿が進化して人間になったなんて言うやつは馬鹿さ。鳥は飛びたいと念じたから羽根がはえたんじゃない。鳥ははじめから鳥だったんだ。純子は自分の道がどこかで見えたんだよ。(中略)心の奥の奥の、もっと奥にある目が、道を教えたんだ、純子にね」



僕はいつまでこの道を失わずにいられるのだろう?
奈良に引っ越してそろそろ4ヶ月を迎えようとしています。
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by chii-take | 2007-07-16 04:40
TANABATAに思う
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会えるかな、会えるといいな。
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一年に一度くらい、
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赦されたっていい。
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彼らが会えないのなら、
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僕たちはもう、ちりぢりに引き離されて誰とも会えない。



会えるかな、会えるといいな。
会えなくなって何千年?
もうそろそろ、赦されたっていい。
今夜はそんな気持ちを夜空に祈ろう。
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by chii-take | 2007-07-07 01:44
残業前の散歩中、ふと思う…
忙しい仕事の合間にも、ちょくちょく様子を見に行く気になる子が会社の近くにいます。

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な〜に? あなた? また来たの?
ちょいとあんた! また来てるわよ!
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ああ!? お前かぁ?  オレのオンナにちょっかい出してるのは? 
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・・・・・・・・・・あん?
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へーくしゅん!!! 
あぁあ!







…風邪?

蒸し暑い日が続いていますが、この時期体調管理がむずかしい季節です。
夏風邪にはご用心…。みなさまお元気ですか?
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by chii-take | 2007-07-06 03:17
とりいれた刺激と、よみがえる記憶
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先週は、思わず泣いてしまいそうな、
いや、実際いくらか泣いてしまっていた一週間でした。

週のはじまりに1ヶ月以上かかって読んでいた漫画、
「ハチミツとクローバー」を読み終えました。
美術大学の在校生や卒業生、職員などを中心とした青春群像劇で、
芸大卒の僕なら共感できる部分が多いだろうと前からいろんな人に薦めれれていた漫画です。
例によって詳しい内容は書きませんが、幾人かのキャラクターと実際の僕の友達がダブって見えたり、確かに思うところの多い作品でした。
読んだ人にしかわからないけれど、
ハグと森田が辿り着いた結論が、僕にとって思いのほかリアルで、素直に(けれども涙ながらに)「そうだね」とうなずける話でした。
(染さん。貸してくれてありがとう!)

日曜はそんな少女漫画の世界とは一変して、ちょっとアートな空間に身を置いていました。
大阪城ホール横の特設会場で行われている劇団維新派の新作公演に行ってきました。
「Nostalgia」という舞台です。
1993年の同名の舞台の再演かと思いきや、まったくの新作のようでした。
例によって詳しい内容は書きませんが(ていうか書いちゃダメ!)、
「20世紀の総括」というテーマを掲げたこの作品。
巨きなものに対峙しようとするときに必要になる巨きな視線の存在を確かに感じました。
主要登場人物のはるか上方から見下ろす視線には、過ぎ去った時代を冷静に分析しうる現代の視点、のみではなく、それらの時間を共に過ごし、リアルにその時代を感じていた人の思いというものを強く感じました。
20世紀の総括。
誰しもがそう簡単に取り組めることではなく、ある年代の方にのみ託された命題だと思います。その命題に果敢に挑戦された作者に敬意を思いました。

上演終了後、身の周り知り合い何人かがこの公演に注目していると話していたので、もしや知合いが来てはいないかとしばらく会場の外できょろきょろしていたのですが、その姿はなく、かわりにと言っては何ですが、例によって維新派の演出家である松本雄吉さんの姿を見かけました(この人公演の際はよくこうして外をうろうろしてるらしいのです)。
出口のすぐ前でおそらくお知り合いなのだろうと思われる人と挨拶をしたり談笑したりしながら、ずーっと会場から出てくる人の姿を眺めていらっしゃいました。
僕はその後方10メートルくらいのところで、ぼーっとしていたのですが、不審者と思われたのか2、3回目があうことがあり、何か一言感想でも述べようかと思ったのですが、なかなか言葉が見つからず結局何も話さないままその場を後にすることになりました。

思い出したのは、大学のとき顔を会わす度に笑顔で僕に声をかけてくれた抽象絵画の先生のこと。
言葉をかけられる度「もう絵は描かないのか? 僕のところに来ないのか?」と訊ねられているようで、僕はその笑顔に何も返事できないまま、軽い会釈でやり過ごす毎日でした。

松本さんと目が合う度、何か言いたくても言葉にならないもどかしさに自分で少し嫌気がさしてきて…。
そんな思いにとらわれていると、若い頃の先生に対する思いが蘇ってきました。

僕が思ったのは、おそらく松本さんはそのとき通り過ぎる来場者の表情を眺めながら、作品の出来やその感触を確かめていたんだろうけれど、
僕にはまるで誰かを探しているように見えたのです。
もちろんそれは僕の先入観が観させたものなのでしょうけれど。

維新派は近い将来、再び奈良平城宮跡での公演を企画しているのだそうです。

このところ知り合いの個展やグループ展の話がたくさん。
そろそろ僕も自分の作品のことを考えていかないといけません。

肩に力いれて「これが作品だ!」じゃなくて、日々意識にのぼるあれやこれや、
写真を撮るように、日記にするように、さりげなく形づくりたい。

そうして観に来てくれた人と言葉を交わしてみたいのです。
あの人のように。
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by chii-take | 2007-07-02 15:13