<   2007年 09月 ( 12 )   > この月の画像一覧
赤のおとない
d0105218_222697.jpg

この花のおとないを、この一年ずっと待っていたように思います。

待つのは好きです。
その間できる事もなく、ただ静かにそのときがやって来るのを待っている時間。
過去でも未来でもなく、ただ緩やかに流れていく今を感じられる時間。
三脚にカメラをセットしてその前にしゃがみ込み、そういう時間を感じているのが好きでした。

でも今回のはそういう待ち方ではなかった。
過ぎ行く時間を感じるのではなく、
生あるもののおとないを、その足音に静かに耳を澄ましながら待つことだった。
いつ訪れるかわからない緊張や高まる期待をずっと胸にしまいこんだまま、
それでも日常の日々を過ごしていかなければならない待ち方。


こういう“待ち方”ははじめてだった。

高速で移動する電車の窓から一瞬で後方へ過ぎ去った赤い影を見たとき、
僕は自分の胸の高鳴る音を聴ききました。

僕は矢も楯もたまらず、その明くる日にはカメラを抱えて奈良を南下する車中にいました。
d0105218_2221848.jpg

その日の記録はこちらにもあります
[PR]
by chii-take | 2007-09-29 02:26
巨きな鏡の下で
d0105218_2113266.jpg

人の感情や身体のリズムは、月の満ち欠けに大きく影響されているのだそうです。
それは人のみならず地球上の様々な生物の生態に影響を与えるのだとか…。
こんな月の夜は感情が高ぶります。

もうすぐ30にもなろうというのに、
昨日は日常の中で起こった些細な出来事に思わず慟してしまった自分に驚きました。

うちの実家の猫は、いつでも部屋の角の静かな場所で一人の時間を過ごしたがるくせに、
日数分のご飯を残して二日も家族で家を空けてしまうと、
その間一人ではろくにご飯も食べられなくて、すっかり痩せこけてしまいます。
(まあ、元が太りすぎだから良いダイエットになるんですが…)

情けないというか、へそ曲がりというか、面倒がかかるというか、
そういう猫です。
拾ってきた男に似たんだなと昨日この月の下で思いました。

相棒のα100に300mmの望遠をつけて解像度も最高の設定にすると、ここまで近くに月を見ることができます。
意外と殺風景なもんですね。うさぎがいるようにはとても見えない。

月といえば、太陽と月というのが一般的な組み合わせですが、
古い言葉には太陰という言葉があって、
月のことは、太陽と対の言葉で太陰といったそうです。

白川先生いわく、【陽】は梯子を使って降りてきた神さまの力を玉の中に封じ込めて、
その力を上方から下方へ放射上に及ぼしている形を表しているのだそうです。

【陰】は同じように梯子を使って降りてきた神さまの力を、
「今」の形に表されたフタをもって閉じ込める様を表しているのだそうです。

「フタをする」とか、「閉じ込める」とかいうと、なんだかネガティブに聞こえますが、
『昼間は力を外に向ける時間、夜は内側を見つめる時間』と考えると、やっぱり大切なものなんだと思うのです。

d0105218_2115248.jpg無愛想なうちの猫も、夜になるとまた違った一面を見せました。
夜中僕が一人居間で考え事をしていると、ゆっくりと近づいてきて、僕の横にごろんと座り、
背中をひっつけてよく毛繕いをしていました。ときにはひざの上に乗ってくることも。
もちろん無言、いや無音です。
でも昼間他人に無関心なこいつの心が、なにやら外に向いているのを感じる瞬間でした。
「どないしてん?。なに考えてんねん」

昼と夜では心の向う方向がリバースする。
自分とこいつとの関係を思い起こすとき、そう思わずにはいられません。

空に浮かんだ巨大な鏡にすっぽりと太陽が映っているのをみると、
そのとき僕の心が内に向いているのか、外に向いているのか、一瞬判らなくなります。

月を見上げると人を思わずにはいられません。
[PR]
by chii-take | 2007-09-28 02:57
絵を描く人たち
d0105218_3513564.jpg

この三連休はいろいろあって、結局一日も家でじっとしていた日はありませんでした。
予定の行動あり、トラブルあり、衝動で動いた行動あり。
いろいろありすぎて、一つの日記には、どうもまとまりそうもありません。

起こったことを順を追って書いていこうと思います。

この連休は、ある奇跡を起こそうという人からの携帯メールから幕をあけました。
ホントかよ?。とか思いながら、その奇跡は僕自身どこかで願望として願っていた事柄だったから、「やろうぜ!」という掛声に一瞬鳥肌がたつ思いでした。
僕には出来ないだろうと思うのと同時に、この人ならできるだろうと思うところがあって、
旗を挙げるというのはこういうのをいうんだろうなと思う出来事でした。

そして二日目、僕は僕自身の身に訪れた小さな奇跡(自分で起こしたわけじゃない)を感じるために大阪へ向いました。
途中、大和路線の車中から待ちにまった曼珠沙華の花を見ました。
今年はどうも咲くのが遅れていたみたいで、毎日車中から目を皿のようにして探して待ちこがれていた花がようやく姿を現したのを見て、思わず「来たー!」と友達に報告してしまいました。
カメラかかえて途中下車しようかと思ったけど、予定がつまっていたのでそこは耐えました。

そう小さな奇跡です。
それは十数年ぶりの再会でした。
高校時代の同級生で彼女とは悪夢のようだったデザインの演習を一緒に受けた間柄。
いわば戦友です。

この人がグループ展をするということで、かねてからのMixiでのご縁が幸いしてお誘いをいただき、この日めでたく再会となりました。
同級生なのに、戦友なのに、この日がはじめての会話。
上滑りする会話の端々に過ぎ去った十数年の時間を思いました。
僕は会ったら話したいと思っていたことの一割も言葉には出来ませんでした。

連作で作られていた今回の出展作品と、これからライブペインティングで描く作品が、
「物語」によって繋がっている作品であること、そして結末は誰も知らないということを聞いて、
僕は僕自身の表現の原点も「物語」にあることを思い出していました。
大学の卒業論文も担当教授の反対をくらうまでは「グラフィックデザインにおける物語性」だったくらいで、仕事となった今もつくるものに物語を忘れたことは一度もありません。
写真もそうです。僕は一枚の写真の中にさえ物語を表現したくて仕方がないくらいです。

その日描かれたライブペインティングの作品が、前回の続きになる筈だと聞いて、僕には描き始める前から、その作品がどのような方向に向うのかおおよその見当がついていました。
失礼な言い方をするつもりはありません。
物語というのはそういうものだと思うからです。
常に未来予測を繰り返しながら、その予測とのズレを感じる表現です。
もちろん意表をつく展開というのは物語にはつきものですが、それさえも、僕には約束された終幕のための過程であると思えます。

そして今回のライブペインティング。
物語の展開は、僕にはまさに約束された美しい調和を見る思いでした。
うまく例えることが難しいのですが、音楽のことがわかる人ならこう言えばわかるのかな…。
ドミナントコードから、トニックコードへの展開。いわゆる“終止形”というやつです。
大きな展開を経て、始まりの展開に還っていく感じ。
そこにはひとまずの安心と、さらなる展開への期待がありました。

…音楽ならこの先に変調というパターンがあるのですが、でももうその先は語らないでおきましょう(笑)。
もしかしたら音楽に例えてしまうのは会場でかかっていた印象的なBGMのせいかもしれません。


物語、そして約束ということを深く考えさせられた展覧会でした。

僕にとって表現とは物語そのものです。自分の中にある物語を形にすること。
でもそれが他者との関係を持ちはじめたとき、
物語は約束という形をとってつくる者にある種の役目をもたらします。
それは伝えるという役目です。
つくる者はその役目からもう逃れることはできません。
宮崎駿はそれを「映画の奴隷になる」と表現していたように思います。
白川先生の文字学も、その根本は文字の中に秘められた物語の解明にあり、
その意味を伝えることを、先生はライフワークとされていたように思います。

思い出すのは【人】という文字についてです。
昔小学校で【人】というのは支え合う人同士の形と習いましたが、白川先生はそれをはっきりと間違っているといいます。

白川先生によれば、【人】は背を丸めて両手を前に差し出し、自由を奪われている奴隷の姿形を表しているのだそうです。
人もまた神さまに捧げられる存在であるというわけです。
いくらでもネガティブに捉えることのできる見解ですが、僕はこの考え方が好きです。
神さまに捧げられる存在は何も犬や牛、羊だけではないのです。
我々もまた同じ役割を担っているのだと。

【幸】という字は「枷」を象った文字です。その「枷」をはめられた人間を象って【人】。

枷とは何でしょう?

僕は最近思うのですが、
枷とは広い意味での約束のようなものじゃないかなと思うのです。

与えられた人生という物語。その約束された次の展開からは逃れられない。
でもその展開をどう物語るか?どう演じるか?どう歌うか?は、その人の表現力次第です。
大事なことは、約束に対してどう向き合うのか? ということ。
その約束をなしには生きることの充足感、幸せは得られないのです。

この日一心不乱に物語の次の展開を描いていた女性3人は、d0105218_352279.jpg
僕にとってまさしく【人】そのものでした。
当たり前のことですが、なかなかこれができないクリエイターが増えているのです。

その清々しい姿を目の当たりにして、
僕は僕の約束を行こう。
僕の約束と向い合おう。
そういう決意を促されました。

ありがとうを思ったのです。
[PR]
by chii-take | 2007-09-25 04:02
一日の終わりには
d0105218_4311923.jpg

ロゴマークをマイナーチェンジしました。
最近、太陽と月のことばかり考えています。

【日】をジツと読むのは「実」の意味があるからだという説があるそうです。
「充実している」「みちている」という意味でしょうか?
確かに太陽には月のような満ち欠けはありませんからね。
深夜になってごそごそと不完全な文章を書き始める僕のような男には、
あまりふさわしくない文字ですね。

でも、
一日の終わりには、その日一日の実りを感じていられることを…、
一日の終わりには、その日一日の満ち足りた記憶と共にあることを…、

そう願って止みません。

どんなことがあったのか、誰と何を話したのか、
すっかり忘れちゃったというのではあんまりにも寂しいものですから、
会社から帰る道すがら、月を見上げながら、鏡に映った自分を見るように、
その日一日の記憶を反芻してしまいます。
d0105218_4312979.jpg

そうやって月を見上げていると、自分のことだけではなくて、
身近にいる人たちの一日にも思いを馳せてしまったりして、
用もないのに突然友達に電話を掛けてしまいます。
用がないものだから上ずった会話が右往左往。
「じゃ、またな」と言ってからもなぜ電話したのかと考え込む始末。
(月にはそんな不思議な力があります。なんせ宇宙規模の巨大な鏡ですから)

そんな突き動かされる力をちゃんと使いたくて、
ここのブログに太陽と月をあしらいました。
一日の終わりには、太陽と月を抱いて、実りある言葉を探してしまいます。
[PR]
by chii-take | 2007-09-22 04:34
◯◯の秋
d0105218_421049.jpg

“読書の秋”だ、“芸術の秋”だって、
どうせちいたけはそんなことばっかり考えてんだろう、と思われてそうな季節ですね……。

実はそんなこと、
僕の知ったことではありません( ̄▼ ̄)ノ。

秋はやっぱこれです。
今年第一号!おいしくいただきました!。
[PR]
by chii-take | 2007-09-19 04:05
アニキ登場
d0105218_314968.jpg

先日、いつもの同僚といつものラーメン屋さんでこんな話をしました。

一年ほど前からサーフィンに夢中なその同僚は、サーフショップで初めての自分のボードを買おうとしていたところ、ある年配のサーファーに、その歳から始めるんだったら、そんな上級者向けのボードはダメだと言われたらしいのです。

やる気があるのは認めるけど、
十代の頃のような情熱を持ってサーフィンに打ち込めるのか?
ちょっとでも時間があれば毎日のように海に入る彼らのような情熱と時間を、
家族や仕事を持つ君に注げる余裕はあるのか?

ないんだったら悪い事は言わないからもっと易しいボードにしなさい、
と言われたらしいのです。

ちょっと耳が痛い話でした。

確かに十代の頃、好きなことと言えば絵を描くことや楽器を弾くことだったので、
一人の時間は基本的にすべてをそれらに費やしていました。
そう、寝る間も惜しんでというくらいに…。
でも今は寝る間も惜しんで何をやってるかというと、働いているのです。(T_T)

そして働かないといけないのです。
(一部の友達には耳の痛い話かもしれない!ゴメン!)

だから趣味に向けられる情熱というのは十代の頃のようなピュアなものではなく、
その熱量もあの頃のような燃え盛るものにはなり得ないのです。ちょっと寂しいことだけど。


実は先日、あるものを手放しました。

就職してすぐに、一生使うつもりで買ったベースギターです。
絶対止められることが判っていたから、
誰にも相談せず一人で決めて一人で売りに行ってきたんですが、
やっぱり後からいろんな人に叱られました。

でも後悔はまったくしていないんです。
弦楽器が好きで十代の頃こそ寝る間も惜しんで練習していましたが、
写真を始めたこともあって最近はまったく触れていなかった。
楽器は弾くためのだけにあるのではなく、観賞用としての役割も持っているんだと言っていた友人もいます…。実際僕の持っていた楽器もとても美しい楽器でした。
でも僕の目から見て、僕に触られることのなくなったそいつが、なんだか寂しそうにしているように見えたんです。
観賞用にされるくらいなら死んだ方がマシだと、そう言っているように見えたんです。
だから手放すことにしました。

今日、売りに行ったその中古販売店に行ってみたんですが、もうその楽器は陳列棚から姿を消していました。
おそらく、バンドを始めたばかりのどこかの高校生に買われていったのだろうと思うのです。
それはとてもとても僕にとって嬉しいことでした。
思えば楽器とは本当に深い繋がりを持っていました。
つらいことがあれば無心で楽器に向ったし、そういうとき彼は僕の期待通りの音を出してくれました。
泣きながら楽器を弾いたことだってあるんです。

そういう道具との繋がりを…、
それに対する情熱を持ち続けることが困難になるということが、大人になるということなんでしょうか?


先日僕の愛機α100に、アニキ分の機種ができたと発表がありました。
ソニーのつくる二台目のデジタル一眼レフカメラということで、α700と銘打たれたそれは、
α100のような初心者向けではなくハイエンドアマチュア機という触れ込みでした。

α700が発表されたとき、思わずメラメラと物欲が沸いてきてしまって、
レンズや周辺機器も流用できることだし、
ここはひとつ道具のグレードを上げてやるかと思ったんですが、
同僚のサーフボードの話を聞いたときに、不意に手放した楽器のこととかが思い出されて、
僕はこのカメラにどれほどの情熱をかけてやることがで出来るのだろうかと思いました。

果たして僕にアニキ分のカメラを使いこなす技量はあるんだろうか?
資格はあるんだろうか?
果たして、今使ってるこのカメラは自分の使われ方に満足しているんだろうか?

もちろん十代の頃のような時間と情熱を持って写真に取り組めているかと言われれば答えは否です。
それでも、もう少し僕はカメラの声をちゃんと聞いてみたいと思いました。
その上で僕に最適なカメラを傍らに置きたいのです。
いつかα100の方から僕とはお別れだと言ってくることだってあるかもしれないし、
僕の方がいつまでもこいつを相棒にしたいと思ってるかもしれない。

とにかく、その声を聞くために、僕は毎日このカメラを持ち歩くことにしました。
大人として、もうすぐ30代の大人として、可能な限りの情熱を持って。


【謝】とう文字は、
「別れの言葉を述べて立ち去ること」を意味しているといいます。
また、「代謝」のように移り変わることや、
「感謝」のようにありがとうという気持ちも表しているといいます。
出会いの喜びも、一緒に成長する楽しみも、別れの寂しささえも。
すべてこの文字の中にあります。
d0105218_2485355.jpg

[PR]
by chii-take | 2007-09-17 02:57
目には見えないもの
d0105218_222266.jpg

大学一回生の頃、
それがどうしても受けなければいけなかった必須の科目だったためですが、
僕はいやいや美術の演習にも顔を出していました。
そこで先生が学生に与えた課題の一つにこういうのがありました。

「この紙粘土で目には見えないものをつくりなさい」

僕はしばらく考えたあと、アルファベットの「A」の形を作りました。

それを見た先生は、まだまだ浅いよという顔をしながら、
僕にいろいろと話しかけてくれました。
美術が好きなのか? 絵はどこで習った? 
質問には答えましたが、僕との会話が弾むことはありませんでした。

その後一度も彼の授業を選択したことはなかったのに、
卒業するまでその先生が僕のことをしっかりと覚えてくれていたのは、
きっと僕に伝えたいこと、教えたいことがあったのだろうと今は思うのです。

今となってはそれが何だったのかはもうわかりません。
すれ違ってしまったことを、くやしく思います。


白川先生の文字学に出会って、
僕は今ならもう少し違うものをあの課題に対してつくったと思うのです。

【雲】という文字の下の方の部分「云」は、なんと雲の切間からのぞく竜のしっぽを表した形なのだそうです。
また、【風】という文字の中に、「虫」という文字があるのも、「虹」のときに書いたように、それが竜の為した技であることを表しているのだそうです。


かつての僕は「文字というものは目には見えないものだ」と言いました。
目に見える形に本質はなく、意味するものにこそ本質があると。
どこかで冷ややかにそう思っていました。
まだ白川文字学に出会う前のことです。

でも今はその考え方が少し変わってきているのです。
文字というものは「目には見えないものを教えてくれるものなんだ」と思うのです。
本来、目には見えない筈のものを、形に表現してくれるもの。
それは奇跡のような技です。

そして、

それは文字にのみ許された技ではないのだと、今ならわかるのです。
なぜあのときあの先生の微笑みに背を向けたのだろう?
どうして絵を描くことを、しなくなってしまったのだろう?(;_;)

僕は目には見えないものの力を信じます。
だからこそ、
だからこそ、それを見ようとする努力を怠ってはいけなかったのです。


僕はまだまだ学ばないといけない。
見ること、聴くこと、話すこと。
表現することについて。

会社の同僚との語らいから啓発を受けて、
一眼レフカメラを毎日持ち歩くことにしました。
重いです。(>_<、)

目標は一日1カット。
できればその1カットに、いつか目には見えないものを捉えたいのです。
[PR]
by chii-take | 2007-09-15 22:04
姿なきものの姿を追って
d0105218_23303497.jpg

普段電車ではあまり寝ない方なんですが、
今週は仕事がやたら忙しく、今朝は出勤の電車でたまらず目を閉じていました。
真っ暗な視界。
しばらくすると電車がカーブしたのか窓からの光で突然視界が明るくなりました。

一面が黄金のような色に覆われて、肌に温もりを感じました。
一瞬これが太陽の色というものかと思ったけど、
よく考えると瞼の内側を通る毛細血管から透けて見える血の色であることに気づきました。

あらためて太陽の色を見てみようと思って目を開けたら、
今度は車窓からとても深い色の真っ青の空が見えた。
黄金色から深い青へ。そのダイナミックなコントラストに一瞬目が眩みます。

でもどこにも太陽の色はない…。


ぼんやりと空を見上げながら、
僕は孔子のことを慕う二人の高弟の言葉を思い出していました。

一人は孔子の後継者と言われた逸材、顔回。
孔子の偉大さと、自らの無力を嘆じてこうもらしました。

「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、その教えに深く立ち入ろうとすればするほどいよいよ難しい。
前の方に居たかと思うと、実はに後ろの方にいたりする。
私の才能を出し尽くして追いつきたいと思っているのに、
その姿をとらえることもできません」


もう一人は、孔子と顔回の亡き後、孔子学団を実質的に取りまとめた俊英、子貢。
他国の王に孔子はどのように賢いのかと訊かれて、彼は「わからない」と答えました。
それはおかしい。「わからないのに師と仰いでいるのか?」と問われ、
彼はこう答えました。

「人は誰でもみんな天が高いことは知っておりますが、
天の高さがどのようなものかは、知らないと答えるでしょう。
わたしは先生の賢さを知っておりますが、
その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」


思えば二人にとって、孔子は太陽のような存在だったのかもしれない。
手を伸ばしてもそこには届かず、姿を見ようにもその姿は判然としない。
d0105218_23304996.jpg

白川先生曰く、【慕】うという文字は、
上下の「艸(くさ)」の間に「日」が埋もれた形の「莫」という文字に、
「心」をつけて表された文字なのだそうです。
先生は日が沈んで心細くなって人恋しくなる気持ちを「したう」というのだと言いますが、
原初の意味は少し違ったのではないかと僕には感じられました。

午前の太陽の温もりを感じながら、
僕が探しているものも、この温もりのうちにあるのだと思ったのです。
姿ではなく、形ではなく、言葉ではなく、この当たり前の温もりをこそ僕は慕うのです。
d0105218_23312855.jpg

[PR]
by chii-take | 2007-09-14 23:36
一本の樹木や、一輪の花さえあれば
d0105218_3382567.jpg

山の稜線や、木々のざわめき、花々のたたずまい。
昔は見向きもしなかったものの姿だけど、
そんな植物たちの織りなす季節の移ろいに目が行くようになった昨今。
白川文字学から、僕はこんな文字の事を思いだします。

【相】は「木」を「目」で見る行為から生まれた文字なのだそうです。
盛んに生い茂った木の姿を見ることは、樹木の盛んな生命力を見る者に与え、
その力で見る者を助けることになるので、「たすける」の意味となり、
「たすける」というのは樹木と人との間に関係が生まれることであるから、
「たがいに」の意味となるのだといいます。

この樹木からもらう力を、見る者が他の人に及ぶように「おもう」ことを、
【想】というのだと先生はいいます。

また先生はこうも解説しています。
【相】という文字には「すがた」という意味もあるので、
相手の姿かたちを思い描いて「おもう」ことを【想】というのだと。


僕は先生の考察を知り、僕なりにこんな風に思うようになりました。


人は「思う」ことが出来る生き物だから、無意識の世界からは隔離された存在です。
でも、木も花も虫も動物も、もの言わぬ生き物はみな無意識の世界できっと繋がっています。
誤解や齟齬のない世界に住んでいるんです。
その世界から隔離された私たちは、声も届かず、姿も見えない人には、もう気持ちを伝える術を知りません。

でも、彼らの中で大地と直接に繋がっている植物には、
土地の神さまを通じて、この気持ちを伝える力があるのではないか。
そう感じた昔の人は、きっと植物や花、自然のものに、
おもう人の姿を投影し、その姿を見ることで気持ちを伝えようとしたのではないか。
その力を借りて、おもう人を助けようとしたのではないか。
僕はそう思うのです。

『どうか幸せでありますように…。どうか健やかでありますように…。』

「思う」ことから「想う」気持ちを生み出したんだと僕は思うのです。


一本の樹木、一輪の花さえあれば、世界と繋がることができる。
どこへでも気持ちを届けることができる。
(…なんだかインターネットのようですね。電話腺さえあれば…みたいな。)

だから、四方を緑に囲まれたこの土地(奈良)が、僕は好きなんです。
[PR]
by chii-take | 2007-09-11 03:41
阿呆発見
d0105218_315635.jpg
それはある晩のこと、突然僕の身に降りかかった、
何とも言えず複雑で、ある意味、愉快痛快な出来事について…。

ようやく仕事を終えた夜の11時過ぎ、会社から最寄りの駅に辿りついたときのこと。
突然けたたましく鳴り出す携帯電話。
帰りが遅いので掛けてきたのだなと思いながら電話を見ると、それは案の定ヨメからの電話。

もう眠いから先に寝るとのこと。
それはそれでよかったんだけど、今日は晩御飯がないと言う。
どうしてかと訊いてみたら、
今度のハローウィンのパーティーで着る仮装用の衣装を作っていて、
気がついたらこの時間だったと言う。(・。・;)

ヨメと彼女の友達グループは、毎年地元の英会話スクールのハローウィンパーティーに参加していて、
そのグループで年ごとにテーマを決めて仮想を楽しんでいる。
今年はスターウォーズシリーズの主要キャラを揃えるつもりらしく、
ヨメの担当はあの毛むくじゃらの犬のキャラクター「チュー●ッカ」。


「え?、夕方に帰ってきて、それからずっと作ってたの?」

 「うん、もう眠いから寝る。」

「晩御飯は? 食べたの?」

  「いや、眠いから寝る。」

「なんか買って帰ろうか?」

    「いや、眠いから寝る。」

「ずっとやってたって、お腹空かへんかったん?」

      「空かへんかった。もう寝る」

(! ̄д ̄)えぇぇぇ 。
スゴイ集中力です。
旦那も自分の晩飯もまったく眼中なし。
己の限界までものつくりに熱中するヨメに思わず、

…この人ほんまもんの阿呆や。

と思ってしまいました(笑)。
(注:このブログでは「阿呆」は最上級の褒め言葉ですよ。)


えらいヨメもろうてしもたなあ、
とどこかで思いながら、そんなヨメを心底素敵だと思いました。


ということでその晩は深夜の「なか卯」に行き、一人牛丼と味噌汁を注文して食べました。

傍から見れば、仕事帰りの深夜十二時過ぎに一人で「なか卯」の牛丼を食べる妻帯者なんて憐れなものに映るかもしれませんが、
僕はこのときなんだか幸せな気分だったのです。
自分の一番近くにいる人が、自分と同類であるという事実が僕にはなんだか嬉しいのです。
一人ではないと、どこかで強く思えたから。


深夜家に帰って、そろーりと居間をのぞくと、フェルトと紙で作った茶色い人型の毛皮(まだ上半身分しかなかったけど)が、床に横たわっていました…。
そして散乱する裁縫の道具類がキラリと光る…。
ある意味そこは猟奇的な場所ですらありました。

そんな場所が、現在のちいたけ家。

阿呆の住処です。
[PR]
by chii-take | 2007-09-08 03:20