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Cocoa & Chocolate
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ある日のカフェ。
ヨメが目を薄〜くして冷たく言い放った一言。

「その組み合わせはないな…」…(_- )

そう?(゜。゜)
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by chii-take | 2007-11-28 15:11 | Comments(12)
ひとりを愛せる○○へ。 〜けいはんな学研都市に立ってみて〜
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一枚の写真と一行のコピーだけのシンプルなポスターですが、久しぶりに印象的なメッセージを持った広告に出会いました。

「ひとりを愛せる日本へ」

というコピーが当てがわれた「日本郵政グループ」の広告です。
もう随分前からポスターや雑誌広告などで頻繁に登場しているので、目にした事のある方がほとんどだと思うのですが、僕はどうしてもこのコピーが気になっていて、今僕自身の身の回りで起こってることともとても関係しているようで、いろいろ考えていました。

ある人の紹介で、今僕は「けいはんな学研都市」の市民団体で運営されている「地域SNS」に、デザイナーとして参加させてもら(うことにな)っています。(そういえば、まだ具体的に何もしてなかった…)
地域SNSというのは、日本最大手のSNSとして有名なmixiのような巨大なコミュニティーサイトではなくて、ある特定の地域とそこに関わる人だけが参加するコミュニティーサイトのことで、
地域の活性化や、地方で孤立化が進んでいる高齢者の心のケアに役立てられることが期待されている新しいコミュニケーションの形態です。
(比較的高齢者向けのインターフェイスが要求されるそのようなサイトのデザインはとても難しい仕事だと思っています)

去年の春から土地に根付いたものつくりをしようということで、奈良に引越していろいろと模索していたんですが、この地域SNSの運営にデザイナーとして関われることがまずその第一歩だと思えるようになりました。もちろん市民団体なんでボランティアなんですが、活性化する各分野のNPOの活動にも見られるように、このような社会活動は時代性を得ていると思います。

これまでのより中心地から下へ下へと、権力や権威のある団体から、一般の市民へと、最新の情報や価値あるものが伝達されていく、『縦の構造』じゃなくて、

普通にすぐ近くで生活している者同士の『横の関係』で、身近にあるものの本当の豊かさに注目していく時代にゆるやかにシフトしていっているところだと考えています。

「ひとりを愛せる日本へ」じゃありませんが、ひとりひとりを見つめたものつくりが重要な時代にきていると強く感じました。

さて、どうやってデザインという専門分野でその活動に参加していったものかと、思案を重ねているうちに、まだ僕はその「けいはんな学研都市」という地域に、それと意識して立ったことがないことに気づきました。

これはいかんということで、さっそくチームのメンバーの方におすすめのスポットを紹介してもらって、「けいはんな学研都市」を感じれる場所という所に行ってきたのですが、(といっても仕事の合間に立ち寄ったくらいで、ものの20分くらいしか滞在していないんですが…)そこは、「精華大通り」というけいはんな地区のメインストリートで、国立国会図書館や各種施設が立ち並ぶ、まさしく学研都市を象徴する場所でした。
紹介してくれた方いわく、

「その場所にたって360度回って、今度はもう一度、目をつぶって360度回ったら何かが感じられるでしょう」

と仰るのです。

正直、「冗談でしょう?」と思いました。 
そこで最後にワン!と言え。とか言われるんじゃないかと思ったのですが、それはなかった。ということはマジ…?
とにかく、おもしろそうだし、騙されたつもりでやってみたんです。


そこは、僕の住んでるマンションの前を通る三条通りなんて、すっぽり入ってしまいそうなほど、だだっ広い“歩道”。そこでぐるりぐるりと二度回ってる僕はけっこうマヌケでした。

でも確かに感じられたんです。
一度目は360度見渡す限りゴミ一つない未来的な町並み。
充分整備された緑も豊富な小綺麗な街。

二度目、目をつぶって回ったとき、そこにあったのは音だけでした。
それも、大通りをまばらに走り抜ける乗用車の音だけ。
人の気配というものがしないのです。
近くの施設にも、すぐ横を走る車の中にも、確かに人はいる筈なのに、その気配があまりにも“遠い”のです。

キレイ過ぎる。それが僕の印象でした。
例え人の姿が見えなくても、人気というのは何気ない路地の日陰に宿っているものです。
薄汚く、猥雑であったとしても、そこに確かに人がいるという気配を“汚れ”“柔らかな質感”に感じるものなのに、そこにあったのは“硬く”“清潔”な世界でした。

これを良しとするのか、悪しとするのかは、人それぞれの価値観によるものだし、時と場合によります。
ただ、間違いなく言えることは、この街は新しい街であり、その新しさや、ある種のコンセプトに振りきった街といえると思ったのです。
作用には反作用があってしかるべきで、リアルな世界に対して、バーチャルの世界でできることと言えば、それはまさしくこの風景の反作用ではないかと思えたのです。

帰りに最寄り駅までバスで帰ってきたとき、これは是非写真に収めておこうと思った風景があります。
ただの駅のベンチなんですが、全面スチール製の小綺麗なベンチに、明らかに後からつけたようなサイズの合ってない座布団が取り付けてありました。

駅の人が設置したのか、あるいは利用者の誰かが寄贈したのか…、
そこにあったのはちょっとした違和感であるのだけど、明らかな反作用であり、確かな人の気配でした。

僕にできることといえば、この座布団を用意することくらいではないかと思ったのです。
厳然として完成された街はここにあり、そこに人が座るベンチもすでにあるのです。
そこがさらに座りやすくて、もっと居心地がよければ…

「ひとりを愛せる…へ」d0105218_1510288.jpg
一人一人を思いやって、一人一人の座布団を用意すること。
簡単なようでいて、これはなかなか難しいことなのです。

大袈裟にいえば、それは世界に対する反作用なのですから…。

…ちょっと大袈裟過ぎた、かな?

はたして、僕に何ができるのか…
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by chii-take | 2007-11-27 15:09 | Comments(12)
旅を遊ぶ人
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その方は、なんとも子供のような笑顔を向けてこられて、こう仰られました。

「なんだか、みんなが楽しそうに踊ってる形だったから…」

大学の恩師のグループ展で、たまたま見かけた古代文字を題材にした書の作品。
あんまり不思議な作品だったから、始めてお会いした方なのに、
恩師の先生そっちのけで、その書道家の先生と話しこんでしまいました。

気になったのは夥しい数の「人」という文字が、連なって右から左へと流れて行く作品。

まっすぐ並んでるんじゃなくて、右や左、上や下に蛇行しながら、
大きい「人」や小さい「人」、
たくさんの「人」「人」「人」が連なって移動している風景。
なんとも飄々とした行列。

タイトルは「遊」。

白川先生の説では、「遊」は神さまが他方へ遊ぶ姿だから。
人が大勢で移動するこの形は「旅」ではないですか?
とお訊ねしたら、その先生は上のように答えられました。

楽しそうだったから…。

なんとも子供のような、感性と知的好奇心の絶妙にマッチした笑顔。

頭でっかちになっていたとは思わないけど、
そういう笑顔でほぐしてもらえると、
気持ちは自然とやわらかくなる。

そして思い出す。
この感覚は初めてじゃない。

知るということを、あらためて知らされる喜び。

「旅」が「遊」びになる瞬間。

僕は今でも時折、かすかな既視感にとらわれながら、
不意に訪れるそんな瞬間を、心躍らせながら垣間見るのです。
ありがとうの思いと一緒に。
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by chii-take | 2007-11-21 22:42 | Comments(13)
難しいこと
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100%前向きなつもりで書きはじめた文章に、一分の後ろ向きを見つけてしまうと、
それが紙だったら破いてしまいたくなるような苛立ちを覚える。

もういい歳なんだから、完璧主義なんか止めてしまえよと思うけれど、

嘘をつくのは難しいものです。
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by chii-take | 2007-11-21 03:03 | Comments(7)
キラキラ光るひと
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以前このブログでスモールワールド現象というのを取り上げたことがあります。
知合いの知合いを辿っていけば、大体6人の人を経由すると、世界中の誰にでも行きつくことができるというあの説です。

この説のこと自体がとても魅力的で、これに関する記事をいろいろと読んでいたのですが、一番僕の興味を惹いたのは、実験の正否を分ける要因が、その6人の中に、ある特定の個性を持った人が介在したかどうかだった、というところです。

その特定の個性というのは、単純にいうと「人付き合いのよい人」ということになるんですが、
「スター」と命名されたこの平均以上のコネクションを持つ人が介在したかどうかで、その「繋がり」の先に目的の人が居るかどうかが決まったのだそうです。

すごいことだと思いました。
今、僕の側にも、実はそんな「スター」がいます。


陶芸家、河井寛次郎がこんな言葉を残しています。

一人光る 皆光る 何も彼も光る


僕はこの言葉を見たときも、その「スター」のことを思いだしていました。
ああ、あの人のことだ…、と。

その人と共に、その6人の中にいられることが…、どうしてだろう?
僕はこんなにもうれしい。

ずっとずっとこれからも、僕はその人に「ありがとう」を思いつづけるのだと思う。




白川先生によると古代中国には、火を守って神さまに仕える人々がいて、
【光】という文字は、そのような火を扱う聖職者のことを表していたのだそうです。
後に、火のひかりそのものを【光】というようになり、
光を出して美しく見えることから「かがやく」の意味となったのだそうです。

う〜ん、熱いもんな、あの人…。
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by chii-take | 2007-11-15 03:02 | Comments(4)
やんちゃ坊主か、あばずれか?
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30歳になりました。

ヨメや両親、幾人かの友人知人にお祝いの言葉をいただきましたが、
当の本人にとってはあまりうれしくはないのが三十路という道の出発点です。

孔子は30歳を「而立」の歳と表現しました。
自分という人間のスタイルを完成させ、世の中でしっかりと立たせていくときだと言うのです。

30歳の誕生日は僕にとって大きな節目となるはずの日でした。
この日を目標にいくつかのアクションを起こしましたが、それらの種は未だに具体的な成果を得られず、まだまだ思うようには育ってくれてはいません。

実は写真をはじめたことも、僕にとっては重要な「而立」への種でした。

写真を撮りはじめたときから、ずっと憧れていたレンズがあります。
ドイツのレンズメーカー、Carl Zeiss(カール・ツァイス)のレンズです。

昨年の誕生祝いに、僕の相棒α100は我が家にやってきました。
そのときにα100を相棒に選んだのも、同ブランドからα用のCarl Zeissレンズが発売されるというニュースを聞いてのことです。

この一年、実はそんなに大層なレンズが果たして自分に必要か?と随分悩みました。
でもその迷いは、カメラを通して、3人の人から聞かせてもらえた素敵な言葉でふっきることができました。

一人は8月のなら燈花会の会場で出会ったある年配のおじさん。
三脚に立てたカメラは見覚えのある中判カメラの名機、ハッセルブラッド。
もちろんレンズはCarl Zeissの「Planar T*」という有名なレンズ。
(…これは見た事あるゾ。これぞ憧れのレンズ。)
と思っていたら、しげしげとカメラを見つめる僕におじさんが言った一言。

「やんちゃでね。なかなか言うこと聞きよれへんのですわ。手ぇかかります。」

夜だったのでそのおじさんの顔はよく見えなかったけど、道具への愛情あふれる言葉と表現への意欲。そしてその“やんちゃ坊主”への信頼を垣間見せてくれた言葉に、僕は思わず鳥肌ものでした。


そして、もう一人僕にCarl Zeissレンズについて語ってくれた人があります。
僕の通う会社のカメラマンで、最近は「師匠」と呼んでいる人。
普段の仕事ではCanonのデジタル一眼を使ってる人が取り出したプライベート用のコンパクトカメラはCONTAXのT3でした。
もちろんレンズはCarl Zeissの「Sonnar T*」というこちらも有名なレンズ。
彼が僕に語った一言。

「このあばずれは、使いこなすのがなかなかむずかしいよ」

お、“やんちゃ坊主”の次は“あばずれ”か?と思いながら、またまた人に例えられたそのCarl Zeissレンズに僕の興味はさらに高まりました。

先日「師匠」にそのカメラで撮った写真の載った個展の案内ハガキをもらったのですが、その写真の女性的なやわらかさ、繊細な光の質感に、彼がこのカメラとレンズに対して女性向けの形容詞を用いた理由がはっきりとわかりました。
なるほど、彼はその“あばずれ”をしっかりと手なずけ、写真に女性的な艶を落とし込んでいたのです。

もうこの二人が語ったなんとも有機的なCarl Zeissレンズへの評価で、僕はそれを手に入れることを堅く心に決めていました。
でも幾分、この際アナログカメラに持ち替えて中古市場でそいつを手に入れようかと迷う面もあったんです。
“やんちゃ坊主”なり“あばずれ”なり、そのような有機的表現はアナログカメラだからこそ得られる評価なんじゃないかと思えたからです。

でも当初の予定通り、僕はCarl Zeissのレンズを、α用の、それもデジタルカメラ専用のレンズで購入しました。

それは、もう一人、僕にカメラを持つきっかけを与えてくれた人が、またまた僕に教えてくれた一言があったからです。
藤井保という写真家の言葉を通して、今この時代にデジタルと向い合うことの“正しさ”を教えてくれました。
それは僕の求める“強さ”に通じる“正しさ”です。
その言葉を聞いて、今は思うようにいかなくても、可能性を育てることにこそ意味があると改めて思いました。
きっとこのデジタルの荒野にも、この“やんちゃ坊主”は何かを育んでくれるに違いない。そう思えたから、僕はこのレンズの購入を決めました。
自分に相応しいと思えたのです。

30歳の記念に、ヨメからの誕生祝いとして贈ってもらった資金を元に、家計から大幅な借金をしての購入です。いやが上にも気合いが入ります。


最後に、最近はまっている河井寛次郎の言葉を引用します。
(旧字体及び旧仮名遣いは、わかりやすく現代のものに変更してあります)
-----------------------------------------------------------
もの買って来る
自分買って来る



もしか自分以外のものを買って来た人があったなら、自分は其の人を見たい。
人はいうであろう。嫌だったけれど仕方がなかったから買ったのだ。
こんなものは自分のものでも何でもないのだと。
しかし其の人は仕方がないという自分以外の何を買って来たのだろう。

-----------------------------------------------------------

結局、僕には“やんちゃ”も、“あばずれ”も、
それを教えてくれた人、その人自身の気質を表した言葉だったんじゃないかと思えたのです。

どっちが先かはわかりません。
Carl Zeissを手にしたとき、そうなったのか?
元々そうだったから、Carl Zeissを手にしたのか?
それはわからないけれども、

僕の手元にも、ある種の必然を持ってして、
(それは而立への種を内包したもう一人の僕として、)
いよいよCarl Zeissがやって来ました。

今日はそのことの報告がしたかったのです。

「30歳になった」、というのはついでのことです。
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by chii-take | 2007-11-12 00:44 | Comments(6)
私はあなた
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どれだけ言葉を尽くしても、一も解り合えない人もいる。
たった一言、いや、下手をすれば、何か言いかけるその寸前、
息を吸う音が聞こえてきただけで、何が言いたいのか解ってしまう人もいる。


そんな人とは目を合わさなくても、声を聞かなくても、
その横顔だけで何が伝えたいのか解ってしまう。

d0105218_292682.jpgこの違いは、肉体的な距離に比例しない。
過ごした時間にも比例しない。
性別にも、年齢にも従わない。
もちろん才能の介入する世界ですらないと思う。

どこか遠いところで生まれて、
どこか遠いところで育ってきて、
そこから比べるとほんの僅かな時間、
共に過ごしただけの間柄なのに、
不思議と解り合える世界がある。

相性なんて言葉で片付けたくはないけれど、
それ以外の言葉を持たない僕たちの世界では、
そんな言葉で片付けられてしまう関係。

ときにはそんな出会いに涙したってかまわないと思う。
嬉しいのか、悲しいのかさえもうわからないけれど、こんな広い世界で、そういう人と会えることに、涙したってかまわないと思う。

先日、大学の同期と、大山崎山荘美術館を訪れたとき、そこで思いがけず目に飛び込んで来た言葉に胸打たれた。
陶芸家、河井寛次郎の残した言葉。

「私はあなた 私以外に見えないあなた」


意味もなく、涙せずにはいられなかった。
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by chii-take | 2007-11-07 02:16 | Comments(6)
呼び声 (それと、はじめましてのご挨拶)
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このところ意味不明に忙しい。
自分で蒔いたいくつかの種が、
どいつもこいつも思いもよらぬ早さで成長してしまったので、
抜き差しならぬ事態に落ち入ってしまったような、そんな感じです。

すべては「繋がり探し」の一環だったんだけど、同時進行だと目が回る回る。

繋がりたいのは人、土地、仕事、様々。


先週、これまでやっていたmixiとは別のSNSに新たに登録しました。
京阪奈地域の活性化のために作られた“地域 SNS”で、
「町づくり」の専門家の方や、そのビジョンに共鳴した人が集まり、
地域の活性化のために熱く語り合い、具体的な活動を話し合っている団体です。

たまたまこの地域SNSの活動に僕の先輩デザイナーが関わっていらしたので、
今回参加させていただくことになったのですが、
この先輩デザイナーが書いてくださった各メンバーへの僕の紹介メッセージがスゴ過ぎたのか、参加した明くる日から、
mixiで言うところの「マイミク(友達同士として登録しあうこと)」の申請が、たった二日間で14人の方から寄せられる始末。
しかも、そのすべての方が一癖も二癖あるような経歴の方ばかりで、
これはとんでもない世界に入ってしまったと驚くことしきりでした。
いったい僕に何を求めてこれだけの人が声をかけてくださるのか不思議でしょうがなかったのです。

まだ、参加したばかりで僕に何ができるのか、何が求められているのか、定かではないし、その余裕も今はちょっとないのですが、
土地に根ざそうと思っているデザイナーとして、僕にできることはないか。
そういう方面でまずみなさんの役に立ち、
そして、地域に貢献する活動とはどういったものなのかを、
これを機に学ばせていただければいいなと考えています。


僕は子供の頃、誰かのチカラを自分の何かに利用しようなんて、夢にも思わない子供でした。
その代わり、誰かのために僕が何かをしようともまるで思いませんでした。
それで充分フェアだと思っていたし、それが当然のことだと思っていました。

随分冷たい人間だと思われたようだし、そう思っているだけで、
僕は自然と一人でいることの多い子供になっていました。
本当のところは、
何かしてもらっても、おかえしする方法を知らなかったから、
何かしてもらうのが怖かったに過ぎないのです。

(「ありがとう」をちゃんと言えない子だったのです。今でも不得手ですが…)

何をきっかけにその認識を改めたのかはわかりませんが、
何かしてくれる人が、必ずしも見返りを求めているわけではないということを知ったとき、僕ははじめて人同士の繋がりの価値を見いだしました。


求めてもいい。与えてもいい。そのやりとりに誤解さえ生じさせなければ、
きっとどんなやりとりでも、そこにはすばらしい世界が広がっている。

それは自分のためでも相手のためでもなく…、
エゴや思いやりを飛び越えて、可能性を感じるための挑戦なんだと思います。


僕は今、故あって何人かの友人を探しています。
かつて同じ学び舎で共に学んだ友人たちです。

中には僕が声をかけることを面倒くさがっている人もいるかもしれない。
でも、それに気をつかって、「求める」ことをやめてしまうと、
相手が「与えてくれるもの」の可能性を奪ってしまうかもしれない。
それはとっても残念なことだから、僕は傍若無人にも、今「求める人」になってしまっています。

僕の呼び声は彼らに届いているのでしょうか?

深夜2時、ケンカ腰のやりとりで目が覚めました。
何がどうであれ、そんなの関係ない。
そんなの気にしてたら、いまどきの30代の視力では、可能性なんて見えやしない。
僕は可能性だけを見ています。


けいはんな地域SNSのみなさん。
今はまだノーリアクションですが、そのうち落ち着いてくれば、
こういう意味不明に熱い語り口調の男が本格的に乱入すると思います。
そのときはどうか引かないでください。
僕ともども、在心日誌もよろしくお願いします。


最後に、今日は「詩経」の一節を引用します。

オウとして其れ鳴くは
  其の友を求むるの声
相れ彼の鳥の
  猶お友を求むるの声
いわんやこれ人の
  友生を求めざらんや



(鳥の)「オウ」と鳴くその声は、友を呼ぶためのもの。
彼の鳥ですら、友を求め鳴く。
まして人が求めぬはずはない。


そう、求めないではいられないのです。
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by chii-take | 2007-11-01 03:45 | Comments(5)