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限りあるこの世界で
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ピアノの鍵盤の数は88鍵。
ギターの弦の数は6本。
両手の指の数は合わせて10本。

ごく限られた数ではあるわけだけど、
その無限の組み合せで音楽家は世界を表現する。




もちろん中には88鍵以上あるピアノだって、
6弦以上あるギターだってあるのは知っている。
(ベーゼンドルファーのインペリアルというピアノは97鍵あるし、ピカソギターは42本も弦がある)
おまけに肘や足を使って10本以上の指を使うプレーヤーがいることも知ってる。(笑)


でも本当はその限られた数だけで、本当に言いたいことは表現できるのだと思う。
聞く所によれば88鍵以上の音は人間にはよく聴き取れないというし、
ピカソギターもメインの6本以外の弦は共鳴弦であるという。

その限られた数って何?

10本の指。聴き取れる音域。
それは人間の数。
それは人間の世界。





限界に挑戦する者を僕は悪くは思わないけど、
限界を越えようとするものを僕はときどき冷ややかな目で見てしまう。

そんなことしてどうするの?
イカロスの話は聞かなかったの?

ときに人はイカロスの翼を持とうとする。

ときにそれを国家レベルで、
ときにそれをちっぽけな孤独な心の内側で。


やめときなよ。

世界の果てまで行ったら、そこから笑顔でコカコーラの空き瓶を投げ捨てて帰って来れるのが本来の人間の姿であろうと僕は思う。

ニカウさん。お元気ですか?

世界の果て。
その過程にこそ物語があり、我々が住む喜び溢れる人間の世界がある。



【限】

白川先生によれば、この文字は、神さまが上り下りする階段の前まで行った人間が、そのことを咎める神さまの視線の前に虚しく引き返す様を描いた文字だといいます。
まさに東洋のイカロス。


何かを作り出すのではない。すでにこの世界にあるものの組み合せで我々は仕事をする。
まだデザインを学びたての頃に学校の先生や友に教えて頂いたことは、今もこの胸に刻まれています。
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by chii-take | 2008-06-30 02:33
恋愛経験
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ものをつくり始めるときの初期衝動というのは、
人を好きになっていくときのそれによく似ていると思う。

決してただの自己表現ではありえない。
相手を知りたいという気持ちの集積であり、
想いを伝えたいという切ない気持ちの発露がそれをようやく形にする。

最終的にそれを社会の中で立たせたいと思うとき、
そこに費やす努力は、家庭を持ち、家族を養っていくときのそれによく似ている。
それは覚悟の問題に等しい。

結局「愛がなければものはつくれない」のだと、
なんともシンプル結論に至って、
やれやれ、愛するって難しいのだなと、
しみじみと夕暮れの空を眺めてコーヒーを飲みながら考えこんでしまう始末。

最近、デザインをしはじめると、なぜだか涙がとまらない。
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by chii-take | 2008-06-25 02:37
いずれ忘れいくものの中にこそ…。誰も気づけ得ぬものの中にこそ…。
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「最終的にはそれがそこにあったことがわからなくなるくらいが理想のデザインだと思う。」

ある有名なデザイナーがそう言っていた。

誰だったか気になったので雑誌を片っ端から見ていったらそれは佐藤卓の発言だった。
でも探しはじめたときから考えていたのは、そういえば似たようなことを原研哉も深澤直人も言っていたなということだった。
僕はデザインを学び、仕事としてそれに従事する過程で、無意識にそれらの発言の意味をいろんな方向から咀嚼し、自分のスキルや経験へと転換していっていたのだと思う。
でも、本当の意味でこの言葉の意味するところを僕なりに理解できるようになってきたのは、ごく最近のことだと思う。

「介在していたのだと気づかぬくらいが丁度いい。」

思いやりというのはそういうものだと思う。

デザインとは思いやりか?
=(イコール)ではないまでも、僕にとってそれは「そうだ」と言ってしまってもいいほど近いものだ。
バレてしまった時点で、思いやりはなんだか少し、ただ小っ恥ずかしいものに変わってしまう。
おせっかいと思われてやしないかとか、あれはどう思われているのかなとか、本題とは違うことが妙に気になったり。
すべての思いやりは気づかれぬままに過ぎ去っていくのがいいと思う。
ほんの少し切なくはあるけれど、そうでなければ、気持ちは純粋さを失ってしまう。


いずれ忘れいくものの中にこそ…、
誰も気づけ得ぬものの中にこそ、大切な事柄は潜んでいる。
僕はそう思っている。

でも、
本当に誰も知らないものなのかな?

いいや。
人間の脳味噌はちゃんとわかってくれていると思う。
偉大なる無意識には、目に見えぬものこそ敏感に察知する感覚が備わっている。

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ある近隣の町で毎年夏に開催されるという小さな平和のイベントがある。
図書館での読書会や映画上映など行政主導の催し。
おそらく子供たちに平和の大切さを知ってもらうための企画なのだろう。
僕は会社の仕事でその催しの広報のためのアイテムを作らせてもらった。
僕は底抜けに明るい爽やかな写真を使って、それこそ平和ぼけとはこういうことだと言えるくらいの爽やかなイメージで紙面を彩った。
小さな町の小さな子供たちに向けたごくごく小さなイベント。
そのささやかで繊細な祈りには過激なアピールは似合わない。
僕は“平和という理想の状態”をイメージして、いくつかの写真をコラージュして“凪の風景”を描きはじめた。

でも心のどこかでは激しい感情が蠢いていて、
違う。戦争と向かい合うって、こんなことじゃない。
と思っていた。
幼い頃、図書館で眺めた戦争の写真はけして美しいものではなかった。
でもそれをそのまま、悲惨さを悲惨さとして提示することがデザインではないということも僕は知っていた。

だから、実際に紙面に使用する明るくやさしい写真をピックアップする傍らで、僕は原爆の傘の写真を何枚も用意して、その写真を見ながら紙面を作ることにした。
そうでもしなければ、僕は誠実に戦争や平和と向い合うことができなかったから。
その上で、目に見える本当の風景は(たとえ写真でも)、僕の中に閉じ込めおくことした。
出してはいけないし、もはや出す必要もなくなったものだから。


ある町の担当の方にはとても気に入ってもらえたということを僕は会社の営業の人伝い聞いた。
でもたぶん、
その担当の方は、僕がどのようにしてその底抜けに明るいイメージを描き出したのかを知ることはないのだと思う。

でもたぶん、
それでもきっと、
気に入ってもらえたことには、僕が原爆の傘を見ながら作ったことが少なからず関係しているのだと思う。
その人の脳みそはそのことをちゃんと見抜いているのだろうと思う。
願わくば、そのことがそれを目にするであろう子供たちにも伝わればいいなと思う。
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ねえ、
ときおり、わけもわからず悲しくなるのは、そのものに宿されていながら忘れ去ってしまったもの、気づけ得ぬものの記憶を、脳みそが知らないうちに読み取っているからだと思わない?


知らないところで誰かが流している涙を、実は僕たちはちゃんと知っているのだと思う。


ありとあらゆる表現に触れているときに(たとえそれが建築や工業製品であろうと)、
なんだかわけもわからず感情が劇しく揺れ動くことがあると、そこに誰かのデザインを感じて、僕は時折無性に嬉しくなる。



風のように、空気のように、流れているデザイン。
誰も僕を知らない。誰もあの人を知らない。それくらいが、本当は丁度いい。



嬉しくて、同時に切ない。
でもときどきは、やっぱり会いたいよ。知りたいよ。
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by chii-take | 2008-06-12 00:55
言い訳
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バスケットボールジャーナリストの宮地陽子さんのコラムを読んでいて、とても心打たれる広告のコピーに出会うことができました。

「スペイン人であるということは、もはや言い訳ではない。」

かつてバスケット後進国と言われたスペインで今年開催されたヨーロッパ選手権。
そこに出場するスペイン代表を応援するために、スペイン国内で展開された広告のコピーなのだそうです。

かつては弱小と言われながらも、2年前の世界選手権で、見事に優勝を果したスペイン代表を讃えるのにはもってこいのコピーだと思いました。

このコピーには、「選手個人」とそれを育てた「組織」の“成長”の過程、その組織が勝ち得た“自信”の力強さを感じます。

そしてただ勝ち取ったものを顧みるだけではなく、
その思いはなお現在進行形であるということをこのコピーは烈しく訴えています。


ふとそんな情熱に心打たれている自分を省みて、僕は自分をとてもつまらない人間だと感じました。
僕はうまくいかないことの多くを、常に何かのせいにしているような気がしてならないのです。

僕はこれまで、
「日本人」であることを言い訳にしてこなかっただろうか?
「男」であることを言い訳にはしなかっただろうか?
「夫」であることは?
「一人っ子」であることを言い訳にはしなかったか?
「社会人」であることを、「印刷会社」の社員であることを言い訳にはしなかったか?
「デザイナー」という肩書きに固執して、それを言い訳にはしなかったか?

挙げていけばきりがありません。


スペイン代表を讃えるコピーは、「もはや言い訳ではない。」と言い切った後をこう続くのだそうです。

それは「一つの責任」であると。

自分の立場の責任を全うせずに、それを言い訳に転嫁してしまったものには、勝利なんてものは永遠に訪れないのでしょう。

「ちいたけ」は、もう「ちいたけ」であることを言い訳にするのは、やめにしようと思うのです。

「彼」は「彼」だから。

そう思われることも了解しないし、自分で自分をどこかで限るのも、もう金輪際やめにしようと思うのです。

本当にできるの?
それはわからない。
でも
やらいでか!

そのくらいの精神で。

いつか、
「ちいたけ」であることはもはや言い訳ではない。
と自分でそう思いたいのです。
いや、そうならなければ。


余談ではありますが、
バスケットにおいて、「世界一」という称号は、五輪金メダルでも、世界選手権優勝でもどちらでもありません。
今日よりはじまるNBAファイナルの優勝チームにのみ「World Champion」という称号が与えられます。
その出場チームにスペイン代表のエース、パウ・ガソールがいます。
バスケットにおいてスペイン人であるということを、言い訳ではなく、責任に変えた男の新しい挑戦です。
ちいたけが一年のうちで最もエキサイトする数週間が始まります。
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by chii-take | 2008-06-06 02:38