太陽の真裏
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Carl Zeiss Distagon T* 24mm F2 ZA / SONY α700


“太陽の真裏”という言葉を聞いたことがありますか?
あるいは「反地球」や「カウンターアース」という言葉でもかまいません。
「ヤハウェイ」とも呼ばれたりするそうです。

それは空想上の惑星を表す言葉で、
地球から見てちょうど太陽の裏側を公転している惑星だから、
地球からは決して観測することはできないのだけれど、
きっとそこにあるはずだと長い間考えられていた惑星のことらしいのです。

何が「きっとそこにあるはず」だと、考えられていたのでしょう。

僕の友達はそれを
「見ることのできないもの」
「確かめようのないもの」
の象徴だと思うといつか僕に語ってくれました。
それは「存在したかもしれない別の可能性」のことだと言うのです。


子供の頃漠然と想像した憧れの風景を覚えているか?

そんな友の問いかけに、僕は即答することができませんでした。
それから数日かけて、僕は幼い頃の記憶を片っ端からひっくり返して、その漠然とした憧れを探していたのです。
でも、思い出せるのは自分のことではなく、僕の周囲にいた人の顔ばかりなのです。

僕はこれまで何に憧れ、何に夢想し、何を求め、何を実践しようとしてきたのでしょう。
そして何を得られずに今日この日に至ってしまったのでしょう。

思い出すのは、高校に入学したばかりの頃、
出会ったばかりの同級生たちに囲まれて、
中学の頃は学校で一番絵がうまいと思っていたのに、
その同級生たちが、僕なんか足元にも及ばないと思うほど絵がうまい人たちばかりだったことです。
(悪いけど一番下手だったとは思っていない)
そんな同級生に囲まれて、これからどんなにワクワクすることが起こるのだろうと、胸をときめかせていました。
15歳の頃です。

大学に入って知り合った人たちは、絵描きばかりではなかった。
音響のスペシャリストがいて、ジャーナリスト的視点からアートを見つめる人がいて、
社会に対してまっこうからアートを提示しようと取り組む活動家のような人がいた。
高校の頃に輪をかけて、僕はワクワクし、ときめいていたのです。18歳の頃でした。

就職して、
最初の職場で知り合った人たちは、多少社会に裏ぶれているかのように見える人たちだった。
でもそれはお子さまの視点であり、
社会人として見たときは、それは立派に責任をまっとうされていた方たちばかりだったのだと、今にして思う。
あの頃の先輩方への尊敬の念を、僕は忘れたことがないのです。
22歳の頃でした。

転属して最初にチームを組ませていただいた方とは、本当に兄や姉と仕事をさせていただいているのかと思うほど、相手のことを信じきって過ごすことが出来た日々でした。
幸せでした。

続々と入ってきた後輩たち。
その一人一人の個性を感じながら、いつか彼らが生み出していくだろう素晴らしい仕事の数々に、本気でわくわくしたものです。
(きっとその過程として、大変な仕事の連続があり、辛い日々を送っただろうとも想像しています。)


引越と転職は、まことに勝手な僕のわがままだったと思っています。
思い描いていたのは、まだ姿形もなかった娘と僕たち家族の未来の姿。それは今現在に直結している風景です。

転職がうまくいったことは、まさに僥倖でした。
知り合ったばかりの大先輩の紹介で、
会ったこともない人たちが僕を会社の仲間として受け入れるべく尽力してくださったこと。(もちろん当時の会社の状況もあったでしょう。中には今現在僕を雇ったことを失敗だったと思っている人もいるでしょう)
ただ、当時はその事実が何よりも嬉しかった。


僕は正直、15歳より以前は、あまり現実的な未来を想像するような人間ではなかったのです。

高校に入って周囲の環境や、僕の周りの人間模様が変わって、僕ははじめて、自分の未来を想像するようになりました。
様々な人との出会いが、僕を様々な未来へと掻き立てました。
こんなことも出来るんじゃないか、
あんなことも出来るんじゃないか、
でもほとんどのことが現実には起こらなかったのです。

なぜなら、それは相手があることだから。
誰か一人が思い描いた理想を、
誰しもが共有できるはずもありません。

僕が受け入れなかったこともある。
友が受け入れられなかったこともある。
後輩が拒否したこともあれば、
先輩の思いに僕が応えれなかったこともある。
ただタイミングが合わなかっただけということもあります。

出来なかったことを数え上げても仕方のないことだけど、
本当は何かの拍子にそれらは実現したことなのかもしれないと、最近よく考えるのです。

webで奇跡的再会をいくつも経験して、ありえないようなことが起こるのを目の当たりにしてから、何度も何度も。

友が「太陽の真裏」の話をしてくれてからというもの、
何度も何度も。

可能性は「失った」のではなく、
「見えなくなった」のだと。
「星はそこにある」と信じている限り
可能性はいつまでも留保され続けていると友は言います。


夢や憧れは叶えてこそ意味があるのか?

必ずしもそれが全てではないと友は言う。
いくばくかの理想、憧れ、夢を実現して、
でも、たとえそれが出来なかったとしても、
憧れたものの価値は何も変わらなかったと友は言う。
それを思い描いた当時のドキドキは今も変わらずに胸のうちにあるからと。


「太陽の真裏」に何があったのか、
それは見ようと思った人間にしか見えません。
でも、うんと見ようと思えば、
今現実にあるこの風景の中に、
きっと見えなくなった筈の可能性が透けて見えているのだと思います。

僕の想い描いた多くの理想は現実にはなりませんでした。
でも、そのきっかけをくれた出会いは確かにあったのです。

きっと今もこんな超鬱陶しい僕の話を聞いて(読んで)くれる人がいるのです。
僕にこんなことがしたいと夢を語ってくれる友がいます。
曲がりなりにも一緒にそれを実現した友もあれば、
夢物語からまだ半歩も進んでいない友もある。
きっと僕も誰かのそんな存在なのでしょう。

まだ過程にあるのです。
太陽があり続けるかぎり、
その裏側に何がある(った)かなんて誰にも判りはしない。
見ようと思えば、それはいつだって実現できる可能性が残されている。
それを教えてくれた。

やったことに意味なんてない。
やれなかったことに意味なんてない。
感じられる思いだけが大切なこと。
それを失わなければきっといつか。
きっといつか素晴らしい出来事が待っているに違いない。
そう思えるのです。
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# by chii-take | 2013-02-19 04:40