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絵を描く人たち
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この三連休はいろいろあって、結局一日も家でじっとしていた日はありませんでした。
予定の行動あり、トラブルあり、衝動で動いた行動あり。
いろいろありすぎて、一つの日記には、どうもまとまりそうもありません。

起こったことを順を追って書いていこうと思います。

この連休は、ある奇跡を起こそうという人からの携帯メールから幕をあけました。
ホントかよ?。とか思いながら、その奇跡は僕自身どこかで願望として願っていた事柄だったから、「やろうぜ!」という掛声に一瞬鳥肌がたつ思いでした。
僕には出来ないだろうと思うのと同時に、この人ならできるだろうと思うところがあって、
旗を挙げるというのはこういうのをいうんだろうなと思う出来事でした。

そして二日目、僕は僕自身の身に訪れた小さな奇跡(自分で起こしたわけじゃない)を感じるために大阪へ向いました。
途中、大和路線の車中から待ちにまった曼珠沙華の花を見ました。
今年はどうも咲くのが遅れていたみたいで、毎日車中から目を皿のようにして探して待ちこがれていた花がようやく姿を現したのを見て、思わず「来たー!」と友達に報告してしまいました。
カメラかかえて途中下車しようかと思ったけど、予定がつまっていたのでそこは耐えました。

そう小さな奇跡です。
それは十数年ぶりの再会でした。
高校時代の同級生で彼女とは悪夢のようだったデザインの演習を一緒に受けた間柄。
いわば戦友です。

この人がグループ展をするということで、かねてからのMixiでのご縁が幸いしてお誘いをいただき、この日めでたく再会となりました。
同級生なのに、戦友なのに、この日がはじめての会話。
上滑りする会話の端々に過ぎ去った十数年の時間を思いました。
僕は会ったら話したいと思っていたことの一割も言葉には出来ませんでした。

連作で作られていた今回の出展作品と、これからライブペインティングで描く作品が、
「物語」によって繋がっている作品であること、そして結末は誰も知らないということを聞いて、
僕は僕自身の表現の原点も「物語」にあることを思い出していました。
大学の卒業論文も担当教授の反対をくらうまでは「グラフィックデザインにおける物語性」だったくらいで、仕事となった今もつくるものに物語を忘れたことは一度もありません。
写真もそうです。僕は一枚の写真の中にさえ物語を表現したくて仕方がないくらいです。

その日描かれたライブペインティングの作品が、前回の続きになる筈だと聞いて、僕には描き始める前から、その作品がどのような方向に向うのかおおよその見当がついていました。
失礼な言い方をするつもりはありません。
物語というのはそういうものだと思うからです。
常に未来予測を繰り返しながら、その予測とのズレを感じる表現です。
もちろん意表をつく展開というのは物語にはつきものですが、それさえも、僕には約束された終幕のための過程であると思えます。

そして今回のライブペインティング。
物語の展開は、僕にはまさに約束された美しい調和を見る思いでした。
うまく例えることが難しいのですが、音楽のことがわかる人ならこう言えばわかるのかな…。
ドミナントコードから、トニックコードへの展開。いわゆる“終止形”というやつです。
大きな展開を経て、始まりの展開に還っていく感じ。
そこにはひとまずの安心と、さらなる展開への期待がありました。

…音楽ならこの先に変調というパターンがあるのですが、でももうその先は語らないでおきましょう(笑)。
もしかしたら音楽に例えてしまうのは会場でかかっていた印象的なBGMのせいかもしれません。


物語、そして約束ということを深く考えさせられた展覧会でした。

僕にとって表現とは物語そのものです。自分の中にある物語を形にすること。
でもそれが他者との関係を持ちはじめたとき、
物語は約束という形をとってつくる者にある種の役目をもたらします。
それは伝えるという役目です。
つくる者はその役目からもう逃れることはできません。
宮崎駿はそれを「映画の奴隷になる」と表現していたように思います。
白川先生の文字学も、その根本は文字の中に秘められた物語の解明にあり、
その意味を伝えることを、先生はライフワークとされていたように思います。

思い出すのは【人】という文字についてです。
昔小学校で【人】というのは支え合う人同士の形と習いましたが、白川先生はそれをはっきりと間違っているといいます。

白川先生によれば、【人】は背を丸めて両手を前に差し出し、自由を奪われている奴隷の姿形を表しているのだそうです。
人もまた神さまに捧げられる存在であるというわけです。
いくらでもネガティブに捉えることのできる見解ですが、僕はこの考え方が好きです。
神さまに捧げられる存在は何も犬や牛、羊だけではないのです。
我々もまた同じ役割を担っているのだと。

【幸】という字は「枷」を象った文字です。その「枷」をはめられた人間を象って【人】。

枷とは何でしょう?

僕は最近思うのですが、
枷とは広い意味での約束のようなものじゃないかなと思うのです。

与えられた人生という物語。その約束された次の展開からは逃れられない。
でもその展開をどう物語るか?どう演じるか?どう歌うか?は、その人の表現力次第です。
大事なことは、約束に対してどう向き合うのか? ということ。
その約束をなしには生きることの充足感、幸せは得られないのです。

この日一心不乱に物語の次の展開を描いていた女性3人は、絵を描く人たち_d0105218_352279.jpg
僕にとってまさしく【人】そのものでした。
当たり前のことですが、なかなかこれができないクリエイターが増えているのです。

その清々しい姿を目の当たりにして、
僕は僕の約束を行こう。
僕の約束と向い合おう。
そういう決意を促されました。

ありがとうを思ったのです。
by chii-take | 2007-09-25 04:02
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