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やんちゃ坊主か、あばずれか?
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30歳になりました。

ヨメや両親、幾人かの友人知人にお祝いの言葉をいただきましたが、
当の本人にとってはあまりうれしくはないのが三十路という道の出発点です。

孔子は30歳を「而立」の歳と表現しました。
自分という人間のスタイルを完成させ、世の中でしっかりと立たせていくときだと言うのです。

30歳の誕生日は僕にとって大きな節目となるはずの日でした。
この日を目標にいくつかのアクションを起こしましたが、それらの種は未だに具体的な成果を得られず、まだまだ思うようには育ってくれてはいません。

実は写真をはじめたことも、僕にとっては重要な「而立」への種でした。

写真を撮りはじめたときから、ずっと憧れていたレンズがあります。
ドイツのレンズメーカー、Carl Zeiss(カール・ツァイス)のレンズです。

昨年の誕生祝いに、僕の相棒α100は我が家にやってきました。
そのときにα100を相棒に選んだのも、同ブランドからα用のCarl Zeissレンズが発売されるというニュースを聞いてのことです。

この一年、実はそんなに大層なレンズが果たして自分に必要か?と随分悩みました。
でもその迷いは、カメラを通して、3人の人から聞かせてもらえた素敵な言葉でふっきることができました。

一人は8月のなら燈花会の会場で出会ったある年配のおじさん。
三脚に立てたカメラは見覚えのある中判カメラの名機、ハッセルブラッド。
もちろんレンズはCarl Zeissの「Planar T*」という有名なレンズ。
(…これは見た事あるゾ。これぞ憧れのレンズ。)
と思っていたら、しげしげとカメラを見つめる僕におじさんが言った一言。

「やんちゃでね。なかなか言うこと聞きよれへんのですわ。手ぇかかります。」

夜だったのでそのおじさんの顔はよく見えなかったけど、道具への愛情あふれる言葉と表現への意欲。そしてその“やんちゃ坊主”への信頼を垣間見せてくれた言葉に、僕は思わず鳥肌ものでした。


そして、もう一人僕にCarl Zeissレンズについて語ってくれた人があります。
僕の通う会社のカメラマンで、最近は「師匠」と呼んでいる人。
普段の仕事ではCanonのデジタル一眼を使ってる人が取り出したプライベート用のコンパクトカメラはCONTAXのT3でした。
もちろんレンズはCarl Zeissの「Sonnar T*」というこちらも有名なレンズ。
彼が僕に語った一言。

「このあばずれは、使いこなすのがなかなかむずかしいよ」

お、“やんちゃ坊主”の次は“あばずれ”か?と思いながら、またまた人に例えられたそのCarl Zeissレンズに僕の興味はさらに高まりました。

先日「師匠」にそのカメラで撮った写真の載った個展の案内ハガキをもらったのですが、その写真の女性的なやわらかさ、繊細な光の質感に、彼がこのカメラとレンズに対して女性向けの形容詞を用いた理由がはっきりとわかりました。
なるほど、彼はその“あばずれ”をしっかりと手なずけ、写真に女性的な艶を落とし込んでいたのです。

もうこの二人が語ったなんとも有機的なCarl Zeissレンズへの評価で、僕はそれを手に入れることを堅く心に決めていました。
でも幾分、この際アナログカメラに持ち替えて中古市場でそいつを手に入れようかと迷う面もあったんです。
“やんちゃ坊主”なり“あばずれ”なり、そのような有機的表現はアナログカメラだからこそ得られる評価なんじゃないかと思えたからです。

でも当初の予定通り、僕はCarl Zeissのレンズを、α用の、それもデジタルカメラ専用のレンズで購入しました。

それは、もう一人、僕にカメラを持つきっかけを与えてくれた人が、またまた僕に教えてくれた一言があったからです。
藤井保という写真家の言葉を通して、今この時代にデジタルと向い合うことの“正しさ”を教えてくれました。
それは僕の求める“強さ”に通じる“正しさ”です。
その言葉を聞いて、今は思うようにいかなくても、可能性を育てることにこそ意味があると改めて思いました。
きっとこのデジタルの荒野にも、この“やんちゃ坊主”は何かを育んでくれるに違いない。そう思えたから、僕はこのレンズの購入を決めました。
自分に相応しいと思えたのです。

30歳の記念に、ヨメからの誕生祝いとして贈ってもらった資金を元に、家計から大幅な借金をしての購入です。いやが上にも気合いが入ります。


最後に、最近はまっている河井寛次郎の言葉を引用します。
(旧字体及び旧仮名遣いは、わかりやすく現代のものに変更してあります)
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もの買って来る
自分買って来る



もしか自分以外のものを買って来た人があったなら、自分は其の人を見たい。
人はいうであろう。嫌だったけれど仕方がなかったから買ったのだ。
こんなものは自分のものでも何でもないのだと。
しかし其の人は仕方がないという自分以外の何を買って来たのだろう。

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結局、僕には“やんちゃ”も、“あばずれ”も、
それを教えてくれた人、その人自身の気質を表した言葉だったんじゃないかと思えたのです。

どっちが先かはわかりません。
Carl Zeissを手にしたとき、そうなったのか?
元々そうだったから、Carl Zeissを手にしたのか?
それはわからないけれども、

僕の手元にも、ある種の必然を持ってして、
(それは而立への種を内包したもう一人の僕として、)
いよいよCarl Zeissがやって来ました。

今日はそのことの報告がしたかったのです。

「30歳になった」、というのはついでのことです。
by chii-take | 2007-11-12 00:44
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