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再生する力
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高校生の頃に「五千回の生死」という宮本輝の短編小説を読んだことがあります。
一日の内に何度も何度も死にたくなったり生きたくなったりするという男と、主人公ぼくとの一晩の邂逅を描いた短編小説でした。

いっそコミカルなほど、ころころと、死にたくなったり生きたくなったりを繰り返すその男の陽気な語り口調に、重いテーマを抱えているはずの小説を愉快な気持ちで読んだことを覚えています。

ごくごく普通の日常を暮らしているだけでも、
“ろくでもないこと”というのは、それこそ掃いて捨てるほど起こるもので、
だからといって死にたくなるような出来事でもありませんが、
そのひとつひとつの“ろくでもないこと”が溜まりに溜まる夜半過ぎには、いささかうんざりした気持ちにもなるものです。

でも不思議とその“ろくでもないこと”というのは、明くる朝にはすっかり忘れているか、あるいは整理がついているもので、その度に、なんとも人間の心というのは丈夫というか都合のよいように働くものだなあと思ってしまいます。


高校生の頃、「五千回の生死」とはまた大袈裟な表現をするなと思っていましたが、そんなすっきりした朝を迎える度、一日一日、僕たちは確かに死と再生を繰り返しながら生きているのだあと思う今日この頃であります。



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「俺は知ってるんや」
「何を」
「五千回どころやない、五万回、五十万回、いや、もっともっとかぞえきれんほど、俺は死んできたんや。猛烈に生きとうなった瞬間に、それがはっきり判るんや。その代わり、死にたいときは、自分の生まれる前のことは、さっぱり思い出されへんねん。何十万回も生まれ変わってきたことが、判らへんようになるんや」

(中略)

「…ものすごう嬉しい気分や。死んでも死んでも生まれてくるんや。それさえ知っとったら、この世の中、何にも怖いもんなんてあるかいな。…」

(中略)

俺は、そいつが生きとうなって、目を輝かせて、
「死んでも死んでも生まれてくるんや」
というのを聞いているうちに、自分までが嬉しいなってきたんや。そいつが言うたびに、
「そうかァ、そらよかったなァ」
本気で相槌を打っとった。

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人は忘れることによって生きていられるということをどこかで聞いたことがあるような気がします。

白川文字学において【忘】とは、「遺失」や「忘却」の意味とは少し異なり、
「忘我の境地」という使われ方に表れているように、「意識に存しないこと」というのがその原初の意味であったといいます。
孔子や荘子、顔回など、中国の聖人の多くはその【忘】の境地を好んだとされています。

人の亡骸を表した「亡」の形に「心」をつけて【忘】。
それってもしかして、死者の心?

まるでその境地においては、生きていることも死んでいることも大きな違いではないのだよと、中国の聖人たちがなぞなぞを吹っかけているようですが、そんなに難しく考えることもないような気がするのです。

僕たちがただ烈しく、生きたいと思うとき、それは反面、そのためなら死んでもいいと思っている瞬間であるような気がするのです。

自分の命を賭してまでそれに打ち込んでいるというような大袈裟なことではなく、

ごく自然に、自分がそうしなければいけないのだと、そのために生まれて来たのだと知ってしまう瞬間であると思うのです。
そのための命が繰り返し繰り返し、何度も何度も与えられているのだと確信する瞬間です。

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最近、毎朝のように今日こそ納得のいく仕事(デザイン)をと思って家を出ます。
前日の出来事や、つたない成果に落ち込んでいるわけではなく、
そのためにこうやって生き返ってきたのだと、はっきりと感じとることができるからです。

会社で年下の主任さんに、前に習ったことのある仕事のやり方を、
「すいませんド忘れしてしまいました」と、もう一度教えてもらわないといけなくなったとき、死にたくなるような恥ずかしさを覚えますが、そんなろくでもないことも一晩経てばきれいさっぱり忘れて…。




ん?
いやいや。
そうじゃなく。



自分は何のためにここに居るのか、それが日常という空間の中で、空気の存在のように自然と感じ取れるならば、人は何度も何度も死と再生を繰り返すことのできる不死鳥のような生き物なのだと僕は思います。
by chii-take | 2008-05-25 23:26
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